獄雨の完調日記 4

2015年7月29日

 

巴水に魅かれる理由、についてすこし。

 

大正から昭和にかけての日本で展開された新版画活動、その大黒柱だったと言って良い版画師・絵師の河瀬巴水(1883年~1957年)。この御方が昨今気になって仕方がない。

 

巴水に関しては、作家の林望さんから面白い話も聞いていたし、最後の浮世絵師ということで注目していないわけではなかったが、昨今の巴水に対する興味は、もう少し別のところから湧き上がってきたという感覚が強い。

それはあの3・11、東日本大震災である。

あの時、私は筑波大の図書館で資料の調査中だった。少し遅い昼食を取って、さて午後の調査に本格的に入ろうかとしていた頃だった。もし、最初にガツンと大きな揺れが来れば、勢い逃げ出せたかもしれない。しかし断続的に大きくなる揺れに逃げ出すチャンスを失って、ただおろおろとするばかり、そうするうちに本棚から一斉に本が落下した。まるで爆弾でも落ちたとおぼしい地鳴りのような轟音であった。一瞬、助からないかも知れないという思いが頭を過った(日頃、学生には本に埋もれて死ぬのが学者としての本望だよ、などと言っていたが、本望どころか、学者になんぞなるんじゃなかったと、これも一瞬だが本気で思ったから我ながらひどいものである。学者失格でしょうな)。

幸い、図書館は何とか持ちこたえた。本は全て落ちたものの、それ以外の被害はほとんどなかった。

実は、筑波大の図書館は、この大地震の二、三カ月前に耐震補強を施したばかりだった。書庫の中に耐震用のエックス鋼が張られ、本を捜すのに不便この上ない。ずいぶんと不便になっちまったなぁなどとぶつくさ文句を言っていたその間際の地震だったが、この補強で結果命が助かったような気がする。もし補強されていなかったらと考えるといささか背筋が寒くなる。

ともかく、すぐに余震が来ると察した私は、隣席に居て身を潜めていた女子学生に声をかけて、一緒にその山積みになった本たちを乗り越え、やっとこさ1Fの入り口に辿りついた。つい先ほどまで命の危険でおろおろし、学者になった自分を憂いていた私だったが、女子学生との逃避行で、すっかり芥川での業平の気分(盗み出した女〔藤原高子〕を背負って逃げようとした話。しかし女は鬼に食われてしまう)になっていたのには驚いた(やはり学者じゃない、単なるスケベなオヤジである)。案の定、その女子学生、私にお礼も言わず、「あなや」(高子の最後の言葉)とも言わずにそそくさと去って行ってしまった。

 

閑話休題、とまれその後の東北を中心にした日本列島の惨状はご存知の通りである。

ケルト神話ではないが、当に、空が落ち、大地が割れ、海が怒り枯れる姿が、毎日テレビを通じて眼前に届けられた。改めて、日本が地震・雷・火事・大山風(おやじ、台風のこと)の国であることを認識した人も多かったはずである。

また、一瞬にして村や町が失われ、或いは地震によって瓦礫となり、或いは津波によって土台だけになった郷里の姿に、強烈な追憶を覚えた方たちも多かったはずである。さらに学校や図書館、美術館・博物館も失われた。この国は、一朝事が起これば、建物や人間だけでない、歴史や記録・記憶など全てが灰燼に帰す諸行無常、幻の巷(ちまた)なのである。

ところが、巴水の版画の中には、古き良き、美(うま)し国であった日本の姿がそのままの姿をとどめている。その日本とは、地震だけでなく、都市開発やら原発事故やらで二度と取り戻せなくなった。その無念と追憶が、我々にとって、巴水の版画を一層愛おしいものにしているのである。いま、巴水の風景画に人々が注目している理由の第一はそこにあると私は思う。

 

でも、なぜ巴水なのか。数ある日本の風景画の中でなぜ巴水が注目されるのか。

 

すでに多くの人たちが認めるように、巴水版画の傑作・秀作は、昭和初期(昭和2年~7年ごろ)に集中している。昭和初期は大正十二年の関東大震災によって灰燼に帰した東京の町が漸く勃興し始めた時である。巴水やその版元である渡辺庄三郎もほとんどの作品と版木を大震災で失い、大正末から昭和初期にかけ改めて版画作りに邁進し始めた。巴水は震災で失ったものを取りかえすべく、版画作りに没頭していた。その一念集中が傑作を生んだのである。

この時の巴水の胸中を推し量ることは難しいが、巴水が遺したいと考えたのは、伝統的な版画やそれを生み出す優れた技術だけでは無かったはずである。これも言われていることだが、巴水の版画には猛り狂う、厳しい自然が描かれることはほとんどない。そこにあるのは穏やかで優しく、生きとし生きるものへの癒しとなる自然、そしてその自然と人間の生活が見事に調和した静謐な空間である。すなわち、巴水が遺しておきたかったのは、版画の向こうにあり、そして何時失われるかもしれない、この国の美しい自然と人間の風景そのものであったのである。この巴水の想いと、東日本大震災後の日本人の想いが深く交錯しているのが、今の巴水ブームであると私は感じている。とすれば、このブームは一過性のものでないし、また一過性で終わらせてはならないものでもある。

 

おそらく、今後の日本は、巴水ブームに見え隠れするように、3・11の惨状と無念を心にとめて進まねばならないだろう。しかし、日本がそうした方向に進むかどうかは微妙な問題である。たとえば、ここのところ、2020年東京オリンピックの国立競技場が白紙撤回されたことが、マスコミをにぎわしている。報じられているように、確かに建築費の多寡は問題だが、私は、デザインや計画そのものに、3・11を踏まえた形跡が何ら見出せないことにより深い問題を感じている。地震や津波があっても安全に、環境への負荷なく、かつ低価格で建築できるスポーツ施設とはどのようなものなのか。さらに自然との共生を目指すスポーツとは全体どのような姿になるのかなどを、前景として押し出してこそ、3・11後の日本でオリンピックをやる意義があるはずである。それは、サイクロンや津波などで水害が出ているバヌアツ、スリランカなどの島嶼国や、貧困層の増加が深刻な社会問題となっている途上国に向けて良いアピールとなるはずだが、そんな話は一向に出て来る気配がない。

今の政府もそうだが、苦い経験を乗り越えて未来に目を向けることは確かに必要だが、それは経験を忘れ去ったり、新しい未来図で塗り替えることではない。それは単なるリビジョニスム(歴史改竄主義)である。もし、オリンピックを盛り上げることで3・11を忘れ去りたいと考えているならば、亡くなった二万人近くの同胞たちの魂は、まったくもって浮かばれるものでない。

gokuu01

染谷智幸(そめや・ともゆき)俳号は獄雨、切枝凡

専門は日本文学(江戸時代)、日韓比較文学

写真(著者撮影)はヘルシンキの小便爺さん、シュールである

 

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