久良岐からパラオへ (久良岐と昭和史の断片1)

当研究所所在地と昭和史の断片、その1です

久良岐からパラオへ

1 研究所の近くにはかつて「国際空港」があって、そこから飛び立つ飛行機があった。
2 あの、『李陵』や『山月記』の中島敦は、そこから飛行機に乗っていたかも知れない。
3 敦を見送る少女たちの中には原節子がいたかもしれない。
4 敦は、ふと「シナの夜」や「蘇州夜曲」を口ずさんでいたかも知れない。

なんのことやら、ですが・・・・
研究所の最寄り駅は磯子、根岸、または京浜急行上大岡または弘明寺または屏風ガ浦です。どこからも遠い・・・バス利用となります。あの「ゆず」も歌っているとおり。

その根岸駅の近くに碑があって、かつてそこに「飛行場」があったとあります。また、研究所近く、すなわち菓子店フリアンドールの近くに「横浜学園高等学校」があります。

飛行場は滑走路がありません。飛行艇を接岸させるところです。その名も「大日本航空」のターミナルで、大型飛行艇の「空港」だったのです。
「大日本航空」は国策会社で、いろいろ路線を持っていました。国際空路も鋭意開拓していたようで、滑走路の不要な飛行艇は便利でした。

最新鋭の飛行艇は「九七式飛行艇」と言い、川西航空機製。もともと軍用で、それを民生に転用した機体が就航したようです。17人くらい乗れたのだとか。

川西航空の飛行艇は、現在海難救助などに活躍する高性能飛行艇の先祖で、当時としても最新鋭のもの。波を避けるために高い位置に取り付けられた翼に四発のエンジンがついています。
八幡橋(八幡神社があります)のあたりに「鳳」(おおとり)町という地名がありますが、これはかつて飛行場があった名残。今はエネオスの製油所などがあります。
そのあたりは「芝生」(しばう)という地名だったのですが、「横浜しぼうのターミナルを出発して」、では、縁起が悪くてちとマズイ。それで気宇壮大な「鳳」(おおとり)に変えた。
久良岐の南の端の富岡には海軍の飛行艇基地があって、この民生用「空港」と軍用機は水面を共有していたらしい。つまり、富岡の沖あたりから滑水した飛行艇は、軍用も民生用も、根岸のあたりで離水して、本牧のあたりから大空に飛び立っていったらしい。風向きによってはその逆なのでしょう。だから、このあたりは軍機つまり軍事機密の保持がうるさかったらしい。
ここから飛び立った飛行艇は、GPSも電波案内システムもないこととて、コンパスを用い、また伊豆諸島や小笠原諸島を目視しながら、グアムやサイパンからパラオのコロールまで行ったようです。

それがいつかというと、年表風にまとめてみました。

1938.12 大日本航空設立
1941.1 南洋定期航空路開設 4月あたりから横浜-サイパン-パラオ航路就航

そして映画が作られます

1942.5.1 東宝『南海の花束』(なんかいのはなたば)封切り

南洋開発の鍵となる空路を開拓する男たちの人間ドラマなのですが、実機を使った撮影や、特撮による台風シーンなどがウリモノ。その特撮を怪獣映画以前の円谷英二氏が担ったのが有名です(DVDあり)。
台風に巻き込まれ殉職する飛行士の妻を若かりし杉村春子が演じています。その遭難地点に主人公が「花束」を投じて慰霊するのがラストシーン。

さて、ここに中島敦がからみます。
中島敦は1933年に東京帝大の国文を卒業し、横浜高等女学校(現横浜学園高等学校)に就職します。国語のほかに英語も担当したらしい。この横浜学園は、元町近く(今は幼稚園があります)ですが、後に当研究所近くに移転して来ました(1947年)。音楽の先生に「シナの夜」、「サンフランシスコのチャイナタウン・・・1950」の渡辺はま子が在籍していたり、学生にかの原節子がいたりしたのが有名。原節子は1920年の生まれで、中島先生、渡辺先生が新任となった年に一年生として入学したようです。これは計算上で、なのですが・・・(学校にも資料がないそうです。学籍簿・指導要録の保存義務は20年ということですから、現存しなくてもしかたがありません。原節子は中途退学のようですからなおさらです。このあたりの事情は「はまれぽ」のページが詳細。中島敦の研究者は必見です。中島先生がどれだけ女生徒たちにモテたか・・・、熱烈なファンの生徒が毎朝一輪挿しのバラを机に飾っていたのだそうだけれど、そんなの私は一度だって飾ってもらったことはないぞ、自慢じゃないけど)

渡辺はま子と中島敦は、新任教師として、「同期」ということになるらしい。意外。

ただし、渡辺は芸能活動が咎められたりして二年で離職しています。そして原節子は、ちょうどそのころ入学していたらしい。

ヒット曲も多いのです。「シナの夜」(1938年12月発売)、「蘇州夜曲」(1940年8月発売)など
はやり歌をうたうなんてけしからんから首だとかナントカ、その騒ぎのやりとりを、職員室のどこかで中島敦が聞いていたということになりますね・・・

中島敦は、1941年に同学園を辞して、パラオに行きます。政府機関の南洋庁の官吏になって、現地で日本語教科書の編纂などにあたることになっていました。戦況の悪化で敦の仕事はそれどころではなくなり、また敦は現地で持病のぜんそくを悪化させることになります。
つまり、当地にパラオ航空路が出来たのと、中島敦がパラオに向かったのが同時期です。航空券は超高価だったはずなのでそんな可能性はハナからないのですが、もし敦が何かの事情で飛行機を選んでいたら、その出発地は根岸湾は鳳町の空港で、学園のあった元町から空港は歩いたって行ける近所だから、出発の日にはファンの女学生が大勢見送りに来ていて、そのなかに原節子も混じっていたかも知れない、というわけです。
ただし、当時は一般人がヒコーキなどに乗る時代ではなかったわけで、敦は船で向かっています(日記などあります。後に小説『光と風と夢』が書かれます)
残念なことに敦は翌42年に帰国し、間もなく喘息により病没。三十三歳でした。1942.12.4
あの漢文の教養がほとばしる作品群が知られるようになったのはその後のことでした。『光と風と夢』は芥川賞の候補になっています。

久良岐の海は、かつてパラオに通じていたのです。私はつい九七式飛行艇に乗る中島敦と見送りの女学生を夢想してしまいます。

なお、この地ゆかりの「紅白歌手」は、渡辺はま子とゆずと、もう一人超大物がおります。それはいずれ。

2016/01/23