ミルクと生牡蠣の地 (久良岐と昭和史の断片 その6)

ミルクと生牡蠣の地

 

当地、久良岐郡本牧領の平子氏城館跡の隣の谷戸?のあたりについては、もうすこし語るべきことがあります。
それは、明治維新後の西欧文明と、当地の関係についてです。

(その2)で触れた根岸の監獄は堀割川に面していましたが、この運河はなんと明治7年の完成です。明治維新のスピードにおどろかされます。この運河は土木学会により、土木遺産に指定されています。この運河の水運によって、当地は西欧とつながっていました。

当研究所は、タクシーの運転手や出前の人に場所を告げるとき、すこしまえまで「金魚池の奥」で通じました。当地の水質が適していたのか、奈良あたりから運び込まれた稚魚が、この地の「池」で肥育(というのだろうか)され、アメリカやオランダに輸出されていたのだそうです。
私などは、そのころこの「池」で営業していた「金魚釣り」にずいぶん行きました。妹などは池に落ちてベソをかいたりしたものです。しかし、それはもう金魚輸出産業の衰退期の一コマだったのですね。
衰退の理由は、戦争によるマーケットの喪失や、相手国の検疫の強化などがあるようです。
それにしても、当地の金魚が、タライなどに入れられて、この堀割川に運ばれ、そこからハシケで沖に停泊した貨物船に積み込まれて、外貨獲得の一翼を担っていた時代があったのでした。

この運河で運ばれたものはいろいろで、川岸に建てられた工場群の産品などもありますが、たとえば造船所などもそこにありました。ヘルムドックと言い、現在でもその水門の跡が残ります。そこのオーナーが家族と暮らしていて、もちろんそれは外人さんで、という場所もあります。

河口近くには、「ボイラー」の工場がありました。禅馬ウォルクス(株)で、後にバブコック・アンド・ウィルコックスが経営し、東洋バブコックと号し、1953年に(株)日立製作所とそのB&W社との合弁によって、バブコック日立(株)となりました。今は三菱日立パワーシステムズ(株)となっているようで、当地にあった工場跡地は日立系の会社の他、複合商業施設となっています。
バブコックは、後には原子炉の圧力容器を作ったりもしていたようです。当地の工場製ではないのでしょうが、それはあの福島第一で使われています。

ちなみに、アガサ・クリスティの『クリスタル殺人事件』は、原題は「鏡は横にひび割れて」というのだそうですが、そのストーリーのキーパーソンはバブコック夫人と言います。映画版を見ていてびっくりしました。バブコックって人の名なんだ・・・
その「バブコック」には、当研究所の近くにも大きな従業員さんの独身寮があり、当研究所の隣の隣のKクンのお父上はその工場に勤めていらっしゃった。

バブコックの工場の隣接地である堀割川河口の埋め立て地には、ゴミ焼却工場が作られ、そのボイラーは、もちろん、このバブコック・アンド・ウィルコックス製であったということです。

ゴミ焼却だの監獄だの、ついでに伝染病病院(現在は脳卒中センター)、野犬収容施設(当地ではイヌコロシと言っていました)、と、要するに市街地には置けない施設が、郊外である当地に置かれることになったということで、その当時の当地の「草深さ」が偲ばれますが、そこに「海」があると、そこは高級リゾートとなっていたということは既に述べました。

この「リゾート根岸」の歴史は、さらにさかのぼれます。
バブコックの工場が作られる前、その北の八幡橋のあたりには、大竹屋という茶店があり、山手から馬で遠駈けしてきた金髪碧眼の西欧人が優雅にアフタヌーンティーなどしていたらしい。この店では、当地で取れた「生牡蠣」が西欧人に好まれたといいます。その人たちから、生牡蠣にレモンを絞ったフランス風の食べ方が伝授され、それが出されていたということです。

今でも堀割川の岸壁にはカキもムール貝らしきものも生育しています。とても食べる気にはなれないけれど。
余談だけれど、この堀割川ではボラやミズクラゲは常のことで、アカエイの姿を見たこともあります。近時は水質も良くなってきています。

さて、遠駈けの貴婦人だの紳士のために、不動坂のあたりには、その名も「シェイクスピア・イン」という茶店もあり、ハムとベーコンが名物だったといいます。
こうした西欧人の食糧供給の需要に答えるため、特に生鮮品の供給のために、いくつかの産業が興っています。
ひとつは西洋野菜で、もう一つは畜産、すなわち牛乳をしぼるための「牧場」です。
西洋野菜は当時「ナンキン野菜」と言われたのだそうで、主に台地の上で作付けされたらしい。それに対し、「牧場」は、山元町などだけでなく、崖下の、今の根岸駅のあたりや、根岸、岡村でも行われました。当研究所から滝頭に向かうあたりにも昭和の頃まで一軒ありました。岡村の奥の方のはY牧場と言って、そこの息子氏と私の妹は同級だったそうです。
ただし、当地のヒトビトは、それを「牧場」などと言わなかった。「うしや」です。
そこには緑なす草原などなかったし、そこでノンビリと草を食む牛がゆったりと歩む姿もありませんでした。あるのは古びた牛舎と、そこでモーと鳴く牛たち。なによりその臭気。たいへんなものでした。

川端康成は、若いころ少女小説を書いていて、その代表作が『乙女の港』です。横浜の牧場の娘である美少女が主人公です。川端は、横浜の牧場が「うしや」だったなんて、モートー知らなかったに違いない。草原と白い牧舎、干し草の良い香りは、川端の想念の内のものなのでしょう。

ともあれ、牛乳に生牡蠣、ベーコン、西洋野菜と、そんなハイカラも当地の一面なのでした。