たとえば大伴家持の歌は

家持の歌「かささぎの」が『百人一首』(のもとになった蓮生の障子和歌)に選ばれた理由を考えて見た。

 

大伴家持  (享年六十八あるいは七十)
かささぎの渡せる橋におく霜の白きをみれば夜ぞ更けにける 五

(釈)
この東宮坊も夜が更けた。空には銀河が横たわっている。まるで空にきらきらと輝く霜の橋がかかっているようだ。見下ろすとこの坊の殿舎の階段にも霜が置いている。星明かりに照らされて鈍く白く輝くその景を眺めていると、今のこの殿舎の静けさや平安が思われる。しかし、争乱は近い。東宮の地位の危うさや、大伴の家の前途を思うと、心は乱れる。

〔作者と歌〕

早良親王の殿舎の深更
家持のこの歌については、「かささぎの渡せる橋」とは何なのかが問題とされてきた。

 
一般にこの橋は、中国の言い伝えで、七夕の夜に、織り姫が牽牛のもとに通うのを助けるために、中型の鳥である烏鵲(カササギ。九州の一部を除いて日本にはいない鳥である)たちが羽を交わして作る橋だとされる。これは古来より中国で詩などに歌われていて、日本でも万葉の時代の七夕の流行のもと、和歌が詠まれている。一方、この「はし」は、「きざはし」で、宮中の階段を洒落て美しく言ったものだとも言われる。

 
この歌では、その「橋」に霜がおりているのだから、秋七月の七夕とは季節が合わない。よく解釈されるように、これは天の銀河そのものを、鳥たちの渡す橋と見立てたのであり、かつ地上の宮殿の階段を美しく歌ったのだと解するのが良いのだろう。二者が重ね合わされているのである。
では、空に輝く銀河のもと、霜のおりた階段のある宮殿は、どこの宮殿なのだろうか。古来このようなことを考えた者はいないのだが、本書ではここに注目してみたいのである。藤原定家もその点について念頭に置いていたのではないかと思うからである。

 
本稿は、この歌の作者とされる大伴家持が晩年に勤務した役所の殿舎だと考えたい。史実に照らし合わせて考えると、それは東宮の殿舎ということになる。そしてこの東宮は桓武天皇の皇太弟である早良親王である。このことは長く見逃されてきたように思う。
万葉集の編集者だとされていて、四百首以上の歌を万葉集に残した大伴家持は、実はその晩年「歌わぬ歌人」として過ごしたという。儀礼的な宴席などで歌を作ってはいたのだろうが、それらの歌は一切記録されていないのである。本人にその気がなかったのだとおぼしい。だから、因幡の国守としてめでたく新春を歌う万葉集最後の歌「新たしき年の始めの初春の今日降る雪のいやしけよごと」という歌から、その死までの二十七年間の家持の歌は、どこにも残っていない。

 
ここではその時期の家持の履歴を改めて眺めてみたい。
家持は越中の国守となって赴任し、北アルプスの俊嶺を望み、北国の風光に感じて瑞々しい歌を残したが、そこから帰京すると少納言となっていた。その翌年天平勝宝四年(七五二)に、東大寺の大仏が完成して開眼される。絶唱と呼ばれる家持の傑作、『万葉集』巻十九の三首が詠まれたのはさらにその翌年のことである。
家持はその後、難波で防人たちにかかわることになる。それが『万葉集』の防人歌につながっていく。
天平勝宝九年(七五七)には、家持と親しかった橘奈良麻呂の乱があった。藤原仲麻呂の暗殺が計画され、失敗したのだが、計画に関わっていた可能性のある家持は、かろうじて罪に問われなかった。

 
家持は翌年の天平宝字二年(七五八)に因幡国守となって任地に赴いた。万葉集最後の歌が詠まれたのはこの翌年である。しかし、その後の天平宝字七年になってから奈良麻呂の乱の関係者が逮捕されることになった。ずいぶん時を経ての処分である。家持は翌八年に薩摩守に転任させられる。実質的左遷であろうとされる。
その年の九月には恵美押勝つまり藤原仲麻呂の乱が起こる。これには怪僧と呼ばれる道鏡を信任した孝謙女帝(この時は退位している)と、その子で藤原仲麻呂を信任していた淳仁天皇の間の確執が基盤にあった。戦乱は大規模なもので、仲麻呂の軍は敗れ、淳仁天皇は廃されて親王に降格され、淡路国に流されてしまう。そしてかつての孝謙女帝が重祚つまりもういちど天皇となって称徳女帝となった。淳仁廃帝は淡路の配所から逃亡を図るが失敗し、おそらくは殺害されたものと推定されている。
天応元年(七八一)に桓武天皇が即位すると、早良親王が皇太弟になった。そして家持は翌年四月に、正四位上右京大夫兼東宮大夫となる。すなわち家持は、この早良親王の一番の側近のひとりなのである。

 
ところが、翌年の閏一月、氷上川継の謀反が露見し、家持は連座して解任された。三方王など配流された者もあるなかで、家持は辛くもそれを免れたらしい。家持は五月に東宮大夫に再任し、六月には従三位となり陸奥按察使鎮守将軍を兼ね、同二年には中納言となる。東宮大夫もそのままである。翌年には持節征東将軍となり、東国に下ったらしい。遥任説もあるが、要衝であった多賀城つまり仙台の北の要塞に任じたとも言う。

 
病を得た家持は、延暦四年(七八五)八月二十八日に没した。死後二十余日、葬式も済まないうちに、家持らは藤原種継射殺事件に関係していたと指弾された。家持は、官籍から除かれるという名誉剥奪処分となり、遺骨は山谷に遺棄させられたともいう。息子の永主(従五位下右京亮)も隠岐に配流となった。財産も没収されたと思われ、その中には現在の『万葉集』も含まれていたかと思われる。だから『万葉集』は桓武天皇の死によって家持が許されるまで官庫に秘蔵されていたのだという。
結局家持は、武人の家の出ながら左大弁などを経て、中納言にして早良親王の東宮大夫をつとめ、その後、都から遠ざけられて、着任した辺地で没したらしい。
すでに触れたように、この障子和歌を撰んだ藤原定家は権中納言である。だから、この障子には中納言歌人の姿が多い。官位で言うと、定家はこの家持と肩を並べていることになる。定家にとって、家持は古代からの中納言歌人の一群の中の一人であって、思いの深い存在なのである。

 
さて、早良親王は天平勝宝二年(七五〇)前後の出生と推測されるので、家持が東宮大夫になった天応元年には三十歳を超えた壮年だった。働き盛りの早良親王は、延暦四年(七八五)、桓武天皇の寵臣で、前年に長岡京の造宮使に任じられていた藤原種継(四十九歳 正三位中納言)と共に、桓武天皇の長岡京造営に関与していた。ところが、九月二三日の夜のことである。昼夜兼行で工事を進めていたのであろうか、その夜、長岡京にいた種継のもとに一本の矢が飛来し、その躰を射貫いた。種継は、翌日に没する。
この暗殺計画は、東宮である早良親王の周辺の人々によって計画されたもので、主導したのが家持だというのである。
この事件で、東宮早良親王は、廃嫡の上、長岡京に近い乙訓寺に幽閉された。親王は無実を訴えて断食をしたが、そこから淡路島に配流される途路、憤死した。
その後、安殿親王(平城天皇)の病、桓武妃らの病没、桓武・早良の生母である高野新笠の病死、疫病の流行や水害が引き続いて起こり、それらは早良親王の祟りであるとささやかれるようになった。親王は祟道天皇と追号され、遺体は大和国に移送されて墳墓が営まれ、後には神社までが作られる(京都市左京区の崇道神社)。
早良親王は、史上有数の怨霊となって、桓武天皇や平成天皇を悩ませることになったのである。

 
この障子和歌の中には、怨霊となった天皇として崇徳院の姿がある。またほとんど怨霊に近い存在と考えられた陽成院の姿もある。臣下という身分だったが、かの管公の怨霊は史上最も怖れられた怨霊である。また、末尾に追加された後鳥羽、順徳両院も、鎌倉の人々によって怨霊となることが懸念されていて、鎌倉には鎮魂のための神社が作られて、今もなお祀られている。

 
恨みが凝り固まって、それがために憤死した者が中有に迷って怨霊となるのだとすると、こうした廃帝や廃太子は、この障子色紙の中の歌人として、実は最もふさわしいのであり、そしてその通りこの障子には廃帝や廃太子、あるいはその周囲の人々の歌が多くある。
加えれば、仲恭天皇のことも想起される。天智天皇の項で触れたように、天智天皇の子である大友皇子は明治期に弘文天皇と追号されているが、鎌倉時代には、専ら九条廃帝と呼称された。大嘗会を経ていない帝で、長く天皇に数えられていなかった天皇である。そして、九条廃帝は、やはりこの障子に見える藤原良経の孫にあたっている。
天皇や皇太子ではないが、皇后だった藤原高子も位を奪われている。この障子の中に見える陽成院はその子で、業平はその蔵人頭であった。
もともと廃帝、廃太子と呼ばれる者はさほど多くない。また、多く廃帝、廃太子は禍のもとになると考えられ、怖れられている。ところが、この障子には、祟りを持つ天皇や親王、また、その周囲の歌人の歌が撰ばれることが多いのである。彼らは、それだけ心中に苦を抱えている存在であると、蓮生や定家ら思われていたということだろう。
さて、大同元年(八〇六)三月十七日、家持は種継事件で処罰された他の者と共に本の位に戻され、従三位に復せられている。名誉回復である。これは桓武天皇崩御の日のことであった。後人には、家持の怨念が畏怖されたのだろう。

 
家持が自身の和歌を筆録しなくなった時期、家持の親近していたのは淡路廃帝(淳仁天皇)と早良廃太子(祟道天皇)の二人で、特に早良皇太弟の東宮大夫を務めていたのであった。実に二人の廃帝・廃太子の近臣だったのであり、それがために、死後とはいえ、自身の除籍と跡継ぎの配流という目に遭うことになった。家持は、しかるべく葬られることもなく、充分な追善供養も受けられなかった歌人なのである。
深更、東宮の殿舎の端近くで、しんしんと冷える空の天の川を見上げて歌われたと読めるこの家持の歌であるが、それは、もとよりいつ作られたものとも知れない。第一、それが家持の作であるかどうかも不明であり、おそらく家持のあずかり知らぬ歌なのであろう。しかしこの歌は、『家持集』に収められている。また『新古今和歌集』は、この歌を中納言家持として収録しているので、定家たちがこの歌を家持作と信じていたのも確かだろう。
この歌を家持の作だと信じるとき、これは家持最晩年に近い頃の歌であり、この時の家持が、仕えている東宮のために種継を殺害するという計画が存在することを知っていて、それを主導したかどうかはともかく、それに味方し、それを推進しようとする思いがあった。またはその逆であって、その陰謀を押しとどめようと動いていた可能性もあろう。二つの選択肢の間で迷っていたのだとも推測できよう。

 
種継の事件の顛末と、その後の大伴家の受けることになる処置を知っている後の時代の者にとっては、これは、突飛な想像ではない。晩年の大伴家が瀬戸際にあったことを知るべきだろう。
この歌は新古今の時代の歌人に人気があり『時代不同歌合』をはじめ各種の秀歌撰に収められ、またこの歌をもとに本歌取が行われている。鎌倉の三代将軍実朝はこの障子にも歌が撰ばれている歌人であるが、その『金槐和歌集』には次の歌がある。

 

月影似霜といふことを
月影の白きを見ればかささぎの渡せる橋に霜ぞ置きける 三四三

 

藤原種継の暗殺を主導したとされる家持の歌を、後に鶴ヶ岡八幡宮の社頭で暗殺されることになる鎌倉の実朝が、本歌取りしているのである。
もうひとつ付け加えておきたい。種継が射殺された長岡京から西を望むと、西山と呼ばれる連山が望まれる。そこには善峯寺があり、蓮生ゆかりの三鈷寺がある。蓮生の師の証空の寺である。今の本堂の前、あるいは客殿の東の窓からは、この長岡京が足下に望まれる。早良親王が幽閉された乙訓寺もほど近い。
長岡京を望むこの寺に縁の深い蓮生は、何かの折に定家と、この藤原種継の事件や、家持と早良廃太子のことを話頭にのぼらせていたのかも知れない。