金沢道の途上にて (久良岐と昭和史の断片 その4)
金沢道の途上にて 久良岐と昭和史の断片 その4
・狐火の燃える丘の尾根筋は金沢道と言われ、かつて鎌倉幕府滅亡の折、落ち武者が通っていった(昭和史ではありませんが)
歴史書『吾妻鏡』には鎌倉幕府の動向があれこれ書かれているのですが、その建保元年(1213)九月二十二日の条に、かの三代将軍実朝が「火取沢」という地に来たという記事があります。
折からの「草花秋興を覧る」ためだったとあります。同行したのは「歌道に携わる」顔ぶれだったということで、北条時房、泰時、あるいは内藤知親らの名が見えます。この二ヶ月ほど後に、京都から実朝のもとに『万葉集』の写本が届きます。藤原定家の手になるものです。このころ、実朝は歌道に熱中していて、十二月には『金槐和歌集』が成ります。時に実朝二十二歳。実朝が渡宋のために大船を作らせるのはこの三年後のことです。暗殺されるのは六年後。
「火取沢」は現在の氷取沢です。このあたりから製鉄の痕跡が発掘されるので、「ひ」は「火」が本来だったろうと推定されています。製鉄で作った「矢尻」は、武士にとって重要ですが、鎌倉から磯子にかけての尾根筋は、箭竹が取れるのでも知られていました。
当研究所のあたりでもその痕跡は残っていて、大正の頃までその笹竹を用いる「らおや」があって、天神詣での人にも良く知られていたといいます。ちなみに名物はほかに天神煎餅と奈良漬けで、茶店ではおでんを売ったとか。
現在でも細い笹竹は自生していて、私はどこにでもあるものだと思っていましたが、実は名物で軍需物資だったというわけです。
建保の頃、幕府は鶴ヶ岡八幡宮の西の大蔵ですから、実朝らは、ここから東にたどって朝比奈あたりで北上し、氷取沢に抜けたのでしょう。この道は金沢道と言われ、軍事、経済ともに重要な道の一つです。氷取沢に向かうのは、海港である六浦に向かうその道の枝道の一つで、複雑に分岐しながら、一筋は御家人平子氏の本拠へ、一筋はその分家の石川氏の住む石川へと向かいました。石川は、現在のJR石川町あたり。平子氏の城館は、すなわち当研究所のすぐ近く。土門拳の通った磯子小学校のあたりにありました。
つまり、実朝や泰時の通った道をさらにたどると、当地に出るというわけです。また、この金沢道の枝道が雑木林や畑を縫って続く丘陵は、あの狐火の燃える丘であって、後には宮様の別邸が出来、ブルドーザーで造成されてしまう前には、横穴などもあって、少年が秘密基地にしていたりしたということになります。
2011年の3月10日、まだ短大の教員だった私は、翌日の卒業式の予行演習を控え、一日中途半端にヒマでした。そこで、かねて興味のあったこの金沢道の踏破を思い立ち、鎌倉駅まで電車で出向き、鶴ヶ岡、大蔵を経て瑞泉寺のあたりから尾根道に登って、尾根伝いに自宅を目指しました。
天園の茶店(ここもおでんが名物)を経て、鎌倉霊園をかすめ、円海山を横に覧て、幽霊が出ると評判の瀬上の池などを経て、港南台駅前で昼食。日野を経て金沢道とおぼしい尾根筋にもどり、当研究所の裏山にたどりついたのは、五時前でした。のんびり行ったのですが、けっこう時間がかかり、足の裏がヒリヒリしたのを覚えています。
その翌日の午後、あの大地震が起こって、私は学校に一泊することになるのでした。
この鎌倉から瑞泉寺あたりを経て磯子に抜ける道筋は、鎌倉幕府滅亡の折、都をのがれた武士たちがたどった道です。道を見失った落ち武者を誘導するために、地蔵がホラ貝を吹いて教えたという「貝吹き地蔵」があったりします。
落ち武者たちは、平子の城館などをたよったようですが、受け入れられず、自刃したり、討ち果たされたりした。この地にもその遺跡が残っていて、慰霊碑があって、いまだに毎年の法要が営まれていたりします。
研究所の隣の谷戸には古刹龍珠院がありますが、その向かいの丘の中腹で没した武士がいて、そのあたりには「首塚」だの「血洗の井」が語り継がれています。まるで横溝正史の『八つ墓村』です。
ここは、すなわち土門拳が狐火を見たあたりですから、金田一耕助的に言えば、それは源氏の落ち武者の恨みの人魂だったということになるかもしれません。
実朝の秋山遊覧は優雅ですが、『吾妻鏡』を見てみると、その三日前には日光の別当より使者が来ていて、阿闍梨重慶なるものが浪人を集めて祈祷などし謀反の気配ありと注進しています。すぐに追討の手が向かうことになり、遊覧の四日後の夕方、下野から阿闍梨重慶の「首」が届きます。実朝は一族の処分について処断しなければなりませんでした。
重慶の生首は、櫃に納められて、鎌倉道をたどって来たのでしょう。あるいは馬が使われたのかも知れません。鎌倉道は、金沢道の北で、弘明寺から上大岡を経て円覚寺のある北鎌倉から巨福呂坂を通って鎌倉に入ります。
落ち武者が通り、生首が通過する、そんな道も久良岐の地に通じていたのでした。
かつて氷取沢を訪れた実朝も、泰時も、『百人一首』のもとになった作品と関係深いのです。どちらも、その撰歌を藤原定家に発注した蓮生と親しい。
あるいは蓮生自身もこの金沢道を辿ったことがあるかも知れません。平子氏に招かれて城館を訪れたりして。
ちなみに、氷取沢にはジャズ部などがあるしゃれた高校があって、そこの卒業生が俳優の向井理さん。その北1.5キロ余りの、やはり金沢道ぞいには浜中学校があって、そこは女優の井上真央さんの出身校です。どちらも朝ドラの人ですね。