久良岐の狐火 ・・・屋根なし市場の美空ひばりとジャズメンたち (久良岐と昭和史の断片 その2)

久良岐の狐火 ・・・ 屋根なし市場の美空ひばりとジャズメンたち

登場人物 土門拳 美空ひばり クレージーキャッツ

1 昭和の大写真家、土門拳が少年時代を送ったあたりに、後に美空ひばりが住んでいた
2 美空ひばりは、後に「ゆず」を生んだ岡村小学校となる分教場に遠足などで訪問していただろう。ひばりは、私立中学に行かなかったら、ゆずと同じ岡村中学に通っていたはずである
3 ひばりが初めて紅白歌合戦に出場したころ、ほど近い堀割川の向こう岸には若いジャズマンが共同生活していた。後にハナ肇とクレージーキャッツの一員になる石橋エータローと安田伸で、時に谷啓の姿もあった。

4 ひばりの生家から臨まれる谷筋は、狐火、狐の嫁入りがよく見られた場所である。それを、土門拳が随筆に書いている。美空ひばりの住んでいた頃にも、まだそれは目撃されていたという


この久良岐の郷は「狐の嫁入り」がよく見られた場所だったそうです。それは昭和二十年代にここに移住した父がよく話していました。その狐火のちらつくあたりは田んぼで、父は友人とアセチレンランプをともしてドジョウを刺したものだそうです。
その狐火についてエッセイに書いているのが、かの土門拳。
そして、土門拳が少年時代を過ごした近所に、その二十六年後に生まれたのが美空ひばり。
その生家の有名な魚屋の近くに住んだのが、カザフスタンあたりから引き上げてきた私の父。そして、川向こうに越してきたのがハナ肇とクレージーキャッツのメンバー、石橋エータローと安田伸。ときどき谷啓。
美空ひばりとクレージーキャッツは、ともに何度も紅白歌合戦に出場していますね。

さて、昭和を代表する写真家、土門拳は大和の寺々の仏像写真で特に知られています。出身は山形で、一家で東京は麻布に移住した後、やはり一家で当研究所近くの町内、丸山二丁目の東北のはずれあたりだと推定していますが、そこに転居してきました。書き残されたものにある「横浜監獄」の煉瓦塀と、空き地を隔てて官舎を臨むという記述からです。
9歳の少年だった土門拳は、そこから「磯子小学校」にあしかけ三年通ったようです。後に、その家のすぐ近くに「滝頭小学校」が出来るのですが、このときはまだ草原だった。
そのころ、この地で西の山のあたりで「狐の嫁入り」がよく見られたらしい。それはつまり当研究所のあたりだったり、今の脳卒中センター病院の奥のあたり、つまり「岡村小学校」につらなる山のあたりで燃えていたものだったらしい。
土門拳の記述は印象的で、あちこちに引用されていて、狐の嫁入り現象の史的一次資料となっているようです。

土門拳一家が神奈川区に転居した後すぐ、関東大震災が起こります。当地では、横浜監獄の赤レンガ造りの建物が多く倒壊し、千人を超える囚人が「解き放ち」になったという事件が起こります。祖父は、後述する上町の家で被災したのだそうで、地震の揺れについてよく語っていました。
さて、地震の五年後1928年に横浜市瀧頭尋常高等小学校(尋常6年・高等2年)が開校します。コンクリート造りの重厚な校舎でした。
この小学校の裏手、西側に「屋根なし市場」という市場がありました。今はこのあたりは、丸山市場がありますが、その場所はかつての監獄の中。刑務所が笹下に移転するのは、1936年です。屋根なし市場は監獄の南西側になります。
1937年に美空ひばりが生まれます。その父は26歳、母24歳という年ごろだったということです。しばらく前のテレビドラマでは、かのステージママとなる母上を泉ピン子さんが演じていました。ひばりさんは上戸彩さん。
ひばりが小学校に入学したのは1944年ですが、時節柄校名は「滝頭国民学校」となっていて、しかもその秋には秦野に集団疎開ということになります。ひばりも疎開したかどうかは不明。
その翌年が終戦の年で、九月にひばりの父が復員するや「みそら楽団」を結成し、12月には磯子の杉田劇場で初舞台(美空和枝と名乗ったそうです)
翌年、町内のお祭りで歌っていたという記録があります。そのころ私の母の一家が一家で疎開していた伊勢原から、先にも触れた上町に戻ります。上町は滝頭から五分くらい。堀割川の向こう側です。滝頭小学校の学区です。
母の弟、つまり私の叔父は、滝頭小学校に転校したてのころでしょうか、下級生のひばりに校庭の鉄棒の下で声をかけ、簡単にあしらわれたしまったそうです。
「お前、劇場で歌ってるんだってな」
「うん」
と。

この話、ずいぶん聞かされました。
その翌年、昭和22年にソ連邦に拘留されて使役されていた捕虜の帰国がはじまります。シベリア抑留が有名ですが、カザフスタン、タジキスタン、キルギスタンまで行っていた組もあって、私の父はその一人。運良く生き残って、たぶん1948年ごろには姉を頼って横浜に来ていたようです。そしてその母親と住んだのが、ひばりの魚屋のごく近く。
ただし、ひばりは1949年に丸山町の広い家に転じます。といっても屋根なし市場から100メートルないくらいの距離です。ひばり6年生の時でした。

ひばりは、その後1953年に、間坂に豪邸(最初のひばり御殿)を建てて引っ越し、その翌年に「ひばりのマドロスさん」で紅白初出場。17歳だったと言うことです。

そして、その翌年、1955年に、クレージーキャッツの前身である「キューバン・キャッツ」が結成されます。当初のメンバーはハナ肇、犬塚弘、萩原哲晶ら。そのギャグがGIに大受けで、「クレイジー」と言われ、バンド名が「ハナ肇とクレージーキャッツ」になったのでした。
そのころ、石橋エイタローはやはり進駐軍のクラブなどで演奏していて、やがて自分のバンド「ザ・ファイブ」を結成、植木等らとの接触を経て1956年の3月に「ハナ肇とクレージーキャッツ」に加入します。
このエイタローと親しかったのが安田伸と谷啓で、結局安田も「ハナ肇とクレージーキャッツ」に参加します。1957年9月のことです。

その後のクレイジーの活躍はよく知られていますが、ザ・ピーナツらと「おとなの漫画」をやったり、植木等と紅白歌合戦に出たり(1962)しています。

さて、その1957年、復員者の私の父はようやく職を得て、生活を安定させることが出来ていたようです。父は近所のお花の先生と仲が良かったようで、その弟子の一人を見初め、ストーカーの如くつきまとって既成事実を積み重ねていきました。その作戦の一つが、その女性の実家に入り込んで、昼間から女性の仕事から帰るのを待つ、という強引なもので、女性の妹弟たちは、また来ているとあきれたそうな。
その家の裏手に間借りしていたのが、石橋エータローと安田伸で、ときどき谷啓もいた、ということです。
父は時に懐中不如意だった石橋氏に多少の融通をしたこともあると良く言っていました。石橋氏は父の一歳下ということになるようです。
結局父は、押しの一手でその女性を得て(1957年2月)、当時のこととて熱川だの箱根に新婚旅行に出かけ、その年の内に男の子をさずかります。それがこの私。父はすでに屋根なし市場からいまの当研究所の地に転じていました。借地をして小さな家を建てたのです。
この記念すべき1957年には、ひばりはすでに海の見える高台の間坂に転居しています。間坂は滝頭から歩いて、まあ30分ほど。もうすこしかな。

つまり、昭和31年ごろ、屋根なし市場ちかくに住まっていた父は、かつて土門拳が見た狐の嫁入りを見、ときにドジョウを捕りに出かけなどしながら、女人に会いに根岸橋を渡って、上町の家で裏に住んでいた若き石橋氏らと交流していた。ということなのでした。あるいはひばりも狐の嫁入りを見ていたのかも知れません。

おまけですが、美空ひばりは、滝頭小学校を卒業した後、私立精華学園中等部に入学します。もし私立に行かなかったら、ちょうどその前年に出来ていた「岡村中学校」に入学したはずです。例の「ゆず」がこの学校の卒業生であるのはよく知られているとおり。ゆずの通った小学校は「岡村小学校」ですが、この学校はもと滝頭小学校の分校で、聞くところによると遠足などで本校の生徒が来たりすることもあったようで、そうすると、その中には加藤和枝さんのすがたもあったかもしれません。
この小学校から望まれるのが、かつて中島敦が勤めていた横浜学園で、元町からこの地に移転したのは昭和22年。この年は、ひばりはまだ屋根なし市場に住んでいて、ぼろぼろになってそこに復員してきたのが私の父だったというわけです。

上町の家の東は丘で、その向こうには緑の芝生に米軍の白い家が点々とあります。そのむこうにオフコースの出た学園があります。その近くにはユーミンの歌で有名なレストラン、ドルフィンも。
久良岐の郷は、昭和の音楽とも絡み合っているのです。