陽成院の虚像と実像

陽成院は、歴代の中でも有数のアブナイ天皇とされています。しかしそれは虚像で、ひっそりと愛妻を守った心優しい男だったのではないかと思います。何より「馬」が好きで、時に和歌会を開いたりすることもあるけれど、忘れられた、もと天皇としてなんと六十余年を京の片隅に暮らしたのでした。

陽成院は歌人としての実績はゼロに近いのですが、説話の世界では大活躍?します。
週刊誌の見出し風にすると

暴虐の不良少年天皇の素顔
・・ついに犯した宮中殺人事件
・・京都市内を暴走し、他人の家占拠して乱行
・・その母にしてその子アリ
・・実の父はあの人か
・・呪いの魔法と集まる妖怪変化

そして、これに純愛事件がからみます。浦島太郎の弟なんかも出てきてもうタイヘンなんです(宇治拾遺物語)。
だからこそ、定家は蓮生の障子の歌人に撰び入れたのでしょう

以下、ちょっと長いけど、まあ読んでみてください。

 

・・・・・陽成院  (享年八十二)
一二 筑波峰のみねよりおつる男女川恋ぞつもりて淵となりける

 

(釈文)
神世より男女が歌垣のために集う筑波山には、その名も男女川という川があるのだと聞いた。それは、男女二つの峰から流れ出し、合流して里に落ちてゆくのだと言う。
オレは、父や母の浅ましい姿を見て、恋などというものは決してするものではないと思って来た。オレは恋などをしない男だと決めていたのだ。
それなのにオマエを好きになってしまった。オレの気持ちは、細い流れがいつのまにか太い流れになって、ついには深い淵となるように、今は青色に沈む淵のようになってしまっている。その淵には、オレの切ない恋心が満々と湛えられているのだ。
〔作者と歌〕青黒い川
陽成院の歌は、実にこの「筑波嶺の」一首しか残っていない。一首しか勅撰集に採られなかったというのではなく、諸歌集にも、この歌以外の歌がまったく見えないのである。
その一方で、陽成院は史書や説話集にはいろいろとエピソードを残している。そしてその中で語られる陽成院の人間性は、極めて悪い。歴代天皇の中でもベスト、ではなくワースト3に入るものと思われる(ワースト1は、おそらく武烈天皇)。

とはいえ、陽成院にはみずから歌合を企画したという記録もあり、歌才のある人であったとおぼしい。後述するように、長く京の片隅に逼塞していた陽成院には、主宰する歌壇はもとより、共に歌を詠むような知友も乏しかったのだろうから、その和歌が残されることもなかったのだろう。これも後で触れる、綏子のような陽成院を慕う者があって、院の死後にその歌稿をまとめればよかったのかもしれないが、残念なことに綏子の方が先に他界してしまった。
一方、陽成院の母の高子はすぐれた歌人で、たとえば『古今和歌集』の春歌に次のような歌を残している。

二条の后の春のはじめの御うた
雪の内に春はきにけり鶯のこほれる涙今やとくらむ  四

高子は後に皇太后の名を剥奪された不名誉な人なので、勅撰集に相応しくないと思われていたために、撰歌された歌の数が少なくなったのかも知れない。陽成院も帝位を剥奪された人で、そのためにかろうじて一首のみが残されたのかも知れない。高子も、その子陽成院も、勅撰和歌集にとって、どちらもしかるべからざる貴人なのである。
さて、そんな陽成院がなぜこの障子の色紙に登場するのかと言うことが問題になる。陽成院はもとより和歌堪能ではない。だから、ここに撰ばれた理由は、その説話的な生に対する興味からであろう。つまり、苦界を生きた陽成院の悲嘆と苦しみに対する供養の念の存在にあることは間違いない。そう考えて陽成院の生を眺め直すと、そこには深い同情を抱かざるを得ないものがある。それは母である高子についても同様である。

仁明天皇の皇統はその子道康親王へ継承された。文徳天皇である。このとき、皇太子になることができなかった悲劇の第一皇子が、陽成院の歌の直前の歌の敏行の母の甥であり、業平らと親しかった惟喬親王である。この文徳天皇は、第四皇子惟仁親王に譲位して清和天皇が即位する。清和天皇は、右大臣良房の女である明子中宮の子である。
この清和天皇の皇子であったが、やはり皇太子になれなかった痛恨の人が三首前の在原行平の孫の貞数親王である。貞数親王に打ち勝ったのは、時の権力者良房の姪の高子のなした皇子で、この貞明親王が第五十七代陽成天皇になる。この母の高子が、二首前の業平と深い経緯を抱えていた。

しかしながら続く第五十八代は陽成天皇の子には受け継がれず、系図を仁明天皇まで遡り、その子である光孝天皇が継ぐことになった。この皇統が宇多、醍醐天皇に至ることになる。
この間には、仁明天皇の皇太子であった淳和天皇の子恒貞親王が廃された承和の変などもあった。つまりこの前後は、藤原良房、基経らのいわゆる〈外戚政治〉が本格化してゆく時期であり、かなりなまぐさい政争のあった時期なのである。文徳天皇の病死については、暗殺の噂さえあったほどである。
陽成天皇は、権力の藤原氏・摂関家への集中の過程で、藤原氏の希望を担って即位したのであったが、その叔父たる基経によって廃位されることになった人である。
良房のあとを継いだ養子の基経と、その妹の高子には軋轢があったらしく、まだ十代になりたての陽成天皇を中にしたせめぎあいがあったらしい。そうした中で業平が蔵人頭になるなどしたが、業平も一年足らずのうちに没してしまう。次第に孤立していった高子、陽成母子であったが、元慶八年(八八四)になって、遂に退位を余儀なくされた。後継は、基経と良好な関係を結んだ光孝天皇で、その即位のいきさつについてはいろいろと説話がある。

さて、陽成天皇はまだ十七歳の少年にすぎなく、病弱でもなかったのであるし、さしたる退位の理由もなかった。陽成天皇をなんとか退位に追い込みたい基経らは、虚実取り混ぜて、陽成天皇の悪行を世に喧伝したらしい。情報戦を展開したわけで、そのバッシングの嵐の中で陽成院は退位に追い込まれ、時をおいて母も皇太后を廃されることになる。

伝えられている少年天皇陽成の悪逆ぶりは枚挙にいとまが無い。
藤原定家と同世代の慈円の歴史書『愚管抄』の巻第三は、「コノ陽成院、九歳ニテ位ニツキテ八年十六マデノアヒダ、昔ノ武烈天皇ノゴトクナノメナラズアサマシクテオハシマシ」と伝える。
かつて武烈天皇は、人の生爪を剥いだ上で山芋を掘らせたとか、人の頭髪を抜いて木に登らせ、その木を切り倒して殺したり、弓で射落としたりして楽しんだとか、人を樋に入れてウォータースライダーのように池に流し、それを矛で刺し殺すのを楽しみとしたとか、胎児がどんなか見てみようと思って妊婦の腹を割いたとか、すさまじい悪逆ぶりが語られる。
陽成天皇にも、人を木に登らせて落とし、「撃殺」して楽しんでいたという話がある。また蛙を集めて蛇に呑ませたり、猿と犬を闘わせてその様を見て楽しんだとも伝える。なかでも、乳母である紀全子の子である源益という男と宮中で相撲を取って、その男を「格殺」つまり殴り殺したという記事を『日本三代実録』が伝えている。つまり暴行殺人である。
また、陽成天皇は生涯、馬を愛好し、身辺に置いて愛していたが、天皇に在位していた時も宮中にひそかに厩を作っていたとか、その馬に乗って暴走し、諸人を苦しめたという話もある。武烈天皇と同様に、女子に対する暴行の説話もある。

とはいえ、それらがすべて本当であったかは分からない。
武烈天皇の場合も陽成天皇の場合も、その皇統がそこで断絶し、幾代か遡って傍系だった天皇が即位するのであり、こうした場合、その皇統のどん詰まりに位置する天皇は暴虐無類の人と記録されることになる。
おそらく陽成天皇の殺人や婦女暴行、京都市中の暴走なども、事実無根か、そうではないにしても、本来取るに足りない出来事で、それが誇張されて伝えられたのだろう。
陽成天皇は京中を馬で暴走して、女子を誘拐して何某の山荘に連れ込んで、そこで仲間とたむろしたのだという。なんだか平成の尾崎豊の歌のようであるが、九歳つまり満八歳の小学三年生の歳のときに帝位について、儀式や行事にあけくれ、行きたいところにも行けない生活に飽いた満十五六の少年が、たまに家出をして暴走するなど、それが天皇という身分でさえなければ、めずらしいこととも思えない。「殺人」も、機嫌良く相撲を取って気晴らしをしていたら、たまたま打ち所が悪かったという程度の事故にすぎなかったのかも知れない。
蛙の話も、それが昭和の子供だったら誰にも覚えがあるようなモノだろう。暴走の話も、十五歳の少年だったらありふれた話でしかない。所詮は反抗期の少年の乱暴と、狂気と暴虐の説話の間には距離がありすぎる。

しかし、陽成天皇および母高子の追い落としを画策していた基経にとっては、天皇のこうした行為は充分な理由となることであった。陽成天皇は退位を余儀なくされることになったのである。
その後、退位した院は陽成院および冷泉院に住居し、退位した後の生活は六十五年に及んだ。あいかわらず馬を身近にしていたようである。この年月の長さは特筆に値するであろう。
陽成院は母親である高子といっしょに住んでいたわけでもないようだが、行き来はあったようだ。その高子は、複数の僧と醜聞があったということが喧伝され、先に触れたように、ついには皇太后の名と身分を剥奪されてしまう。妊娠の噂さえあったのだという。これも、そういうような指弾されるべき事実があったのか不明で、高子を陥れるために捏造された風聞だったのかも知れない。

なお、在位中の陽成天皇には不思議な話が伝えられている。滝口道則なる者が、東国の某郡司から「術」すなわち魔法を修得して帰った。それを聞いた陽成天皇が、その道則を召してその術を習ったというのである。
院は、術を遣って几帳の上に賀茂の祭りの行列を出現させなどしたという。これは『宇治拾遺物語』の説話である。これが真実であるとすれば、天皇のなす事として、奇怪なことと言うべきであろう。
また、退位後の陽成院が住んだ邸宅では、不思議な事件があったと伝えられている。
その陽成院は妖異の起こる場所であるとされていたらしく、浦島太郎の弟と名乗る老人の姿の妖怪が出たというのである。おなじく『宇治拾遺物語』(一五八)の話である。陽成院の住むあたりにはなにか普通ではない妖気のようなものが漂っていると時の人は思っていたらしい。
この陽成院の妻は何人かいるが、父のような乱倫はなかったようである。副臥といわれる教育係兼愛妾がおり、数人の妻があるが、それはごく普通の程度でしかない。ただし、妻たちは紀氏などの出が多いようで、母高子が藤原の妻を拒否していたのかも知れない。

そうした中で、綏子内親王の存在はやはり注意される。
綏子内親王は光孝天皇の娘である。角田文衛は、綏子が陽成院に配された理由について、それを無理矢理譲位させられた陽成院に対する宇多天皇の罪滅ぼし、あるいは融和政策によるものと考えている(『王朝の映像 平安時代史の研究』)。宇多天皇は基経の薨じた後、自邸に新奇な釣殿を設けてそこに綏子を住まわせて陽成院の興味を引き、その建物を餌にして綏子と陽成院を見合いさせ、綏子を陽成院に配することを計画したのだという。
それは突飛な想像かも知れないが、確かに陽成院のような立場の者と、〈政敵〉の皇女が結ばれるのは、よほどの訳があるように思われる。
あるいは歌物語にできるような恋のドラマが現実にあったのかもしれない。というより、『古今和歌集』に収載された歌は、素直に読めば、そのように受け取られる歌である。

釣殿のみこにつかはしける  陽成院御製
筑波嶺の峰よりおつる男女の河恋ぞつもりて淵となりける  七七六

この「恋」のころ、陽成院は退位して十年ほどで、息子の元良親王が七~八歳。基経もすでに没して数年を経ていたと思われる。つまり若く激しい恋の季節は過ぎていて、宿敵基経も既に無いという時期である。そうした中で、陽成院は綏子を得ようとして、恋文を贈ったということになろう。

その経歴から考えて、陽成院は恋に対してシニカルになっていておかしくない。父も母も乱倫の人で、時間をかけて深く男女関係を育むことが不得手な人のようである。それを反面教師にした陽成院は、心が通う女人を避けていて当然であったかもしれない。女人などは所詮いっときの相手にすぎないと思っていたのかも知れない。それなのに、綏子に対しては少年のように恋をし、その感情を、恋する相手に真っ直ぐに伝えたのである。
その頃、陽成院は二十代半ばであったと推定され、さすがに反抗期からは卒業していただろう。大人になっていたからこそ、陽成院は自らの心を捉える「恋心」に当惑した。そして、父を捉えたもの、母を捉えたもの、つまり恋なるものについて認識を新たにし、それこそが、なべて人の心に兆し、誰も打ち消すことのできないものであることを、はじめて知った。本稿はそんな風に考えたい。

陽成院と綏子は、冷泉院にあっておだやかに暮らしたらしい。子供こそ出来なかったが、綏子には陽成院の賀算(区切りのよい年の誕生日の祝い)を主宰したりしている。残念ながら、陽成院より先に没した。
陽成院は、自らが退位を強制された人であり、それがために子息を帝位に就かせることができなかったひとである。また、少年期を閉塞的な宮殿で過ごし、それに息苦しさを感じていたらしい人である。退位を強制されたあとには京都の片隅に捨て置かれて、六十五年もひっそりと過ごした人でもある。
また、父母の乱れた男女関係を反面教師とした人で、素直に女性を愛せない人でもあったにも関わらず、綏子を前にその恋心を押さえることが出来なかった人であった。シニカルに徹することのできなかったわけで、複雑な側面を持つ男であるように思える。

定家は、高子の人生も陽成院の「暴虐説話」もよく知っていたに違いない。蓮生の障子のために、定家はそんな複雑な人生を生きた陽成院を撰び、その真率な恋歌を撰んだのである。