見越しの松のむこうの海 (久良岐と昭和史の断片 その5)

見越しの松のむこうの海

 

当地、久良岐の郷の尾根道は鎌倉まで続いているのですが、海側はどうだったかというという話です。

久良岐の郷の海側には高級海浜リゾートがあった
・別荘、料亭、遊郭、三味線、洋食・・・
・海水浴場
・山本周五郎の仕事場から望まれる海

当地の東、八幡橋の海側に大日本航空の空港があったということはもう書きました。飛行艇の発着所で、しゃれた待合室などもあったらしい。
そこで働いていらっしゃった方のWebページを見ていたら、戦時中、東京の本社が焼けて一時事務所を偕楽園の二階に移していたという話が出てきました。

偕楽園とは何か?ですが、それは高級料亭です。それも磯子で最も大きな。
そんなところに子供の私が行ったことがあるわけもありません。しかし、私が物心つくころも、まだそれはあったらしいのです。

本牧から杉田のあたりは、遠浅で、のりの養殖なども行われた静かな海でした。海水浴場もいくつもあったのです。その南あたりから、海岸線は出入りのある様相となり、横須賀の軍港につながっていきます。

横浜の地理に疎い人のためにすこし整理してみましょう。

北の方、桜木町から出発して、本牧の、海側ではない道を通ってみます。(市電11系統は、元町から麦田という、さらに内陸部を通っています)

桜木町(みなとみらい) かつてドックがあったりしました。鉄道のターミナル。吉川英治の『かんかん虫は唄う』はこのドックが舞台の一つ。

横浜港大桟橋、海岸通り 今はマリンタワーに氷川丸

見晴らし橋のあたり(山下埠頭の陸側) みなとの見える丘の下。
・・・・・かつて、横浜たそがれホテルの小部屋、と歌われたホテルがありました。今はドンキホーテ

小港 元町から麦田トンネルを通ってきた道が合流します。
・・・・・市電11系統はこのトンネルを通って来ます。

本牧原 原三渓の別邸、今の三渓園はここ。
・・・・・岡側は長く米軍住宅地でした。フェンスを越えるとMPにつかまるのです。

間門 この北が白亜の崖でそこに三渓園の東のはしがあります。そのむこうは海原。
・・・・・市電の終点でしたが、後に延伸して八幡橋で杉田行きに乗り入れます

根岸 戦後は間門からこのあたりの海側は米軍に接収されていて、滑走路があったそうな

八幡橋 鳳町の岡側、人工運河の堀割川が海に出るところ 馬車の立場(たてば、発着所)があった

浜 もと闇市の浜マーケットが、今でもしぶとく営業中

葦名橋 ちょっと高級なイメージ。瀟洒な邸宅多し。

間坂 岡側に最近まで料亭がありました。ひばり御殿の坂の下

磯子 ここに偕楽園があった。丘の上に宮邸。後にプリンスホテルに。ボーリング場などもあった


屏風ヶ浦 かつては険阻で交通の難所

白旗 なぜか風流な面影が微かに残ります

杉田 ここにもゆかしい邸宅がほんの少し残っています

IMG_0002 杉田駅前(聖天橋)

と、こういう感じなのですが、この間門から白旗あたりは、おしなべて風光明媚なリゾート地だったのです。間門だって、あの三渓の大邸宅があって、海水浴場もあり、料亭などもあって、山本周五郎の仕事場としていた料亭も、海を見渡すロケーションにありました。代表作の多くがここで書かれています。

根岸にはその名も根岸園という料亭旅館があって、接待や議員など地方名士の宿泊に利用されていたと言うことです。

八幡橋は古くは馬車のターミナルで、そのころから繁華だったところ、一時は日本初の民営水族館なども出来、区役所と警察署がむかいあっていて、銀行などもありました。つまりかつては磯子の中心でした。

浜のあたりから海側に料亭が増え、葦名橋には見番(芸者さんのマネージメントセンターとでも言いますかね)があり、その二階でお姉さま方が舞の稽古などをしていたとか。二業地組合もあったということです。

その先の海側にひときわ大きな複合施設があって、それが偕楽園。写真を見ると、大きな本棟と、いくつもの別棟があり、一度に大宴会が二十組くらい出来そうです。庭園もあります。

IMG_0001正面のマンションのあたりが最大の料亭偕楽園だった

このすぐ西側が結構な崖で、その上に東伏見宮の別宅があります。後にプリンスホテルとなりますが、このホテルも磯子の料亭旅館群の一つであると言えなくもない。なお、関東大震災の折には、この付近の崖が崩壊して大惨事となりました。

その先が、杉田に延伸されるまで市電の終点だった屏風ヶ浦で、その先の岡側が白旗という場所。いまは小さな商店街がありますが、このあたりに遊郭があったのだそうです。どのくらいの規模だったのかはわかりませんが。

料亭は、偕楽園の他、藤屋、田舎家、雨月荘などの名が残っています。まだまだあったことでしょう。

またこのあたりには、髪結いさんや、人力車屋があり、三味線修理の店もあって、小唄のお師匠さんも住まい、小料理屋や洋食屋もあったということです。つまりは熱海あたりの盛時と同じような町並みだったらしい。

こうした家の背後は砂浜で、海水浴場として知られていました。夏場は、桜木町方面から海水浴電車が走っていたのです。

ひととき、根岸から磯子は二業地で、海水浴場もある海岸リゾート、言ってみれば、日本のミニ・ブライトンだったのですね。

料亭群の最盛期は意外と遅く、戦後のことで、昭和三十五年頃だとのことです。
これ以降、磯子の海は埋め立てられてしまい、「海を望む静かなお部屋」、は失われてしまい、社用の接待は関内のクラブなどに移りました。昭和41年には偕楽園も閉業したと言うことです。とはいえ、少しはのこった料亭もあり、私がたまに行く和菓子店は妙に洒落ていますが、それは、かつてそういう料亭に和菓子を卸していた名残だと言うことで、探せばこうした片鱗はいまだにあるのです。(築地塀があって、その家の庭には巨大な石灯籠があったりします)

それでは誰がそのお客だったかというと、関内あたりの会社の人や役人も多かったようですが、なかで最大の偕楽園は海軍さん専用のようになっていたらしい。南には富岡の航空隊があり、さらに横須賀の軍港からもお客が来たことでしょう。

大日本航空は海軍に厳しく管理されていたようでしたので、だからこそ本社がその二階に移転したりしたのでしょう。もともと大日本航空の社員もこの偕楽園のお客だったのだそうです。

さて、間門に住んだ山本周五郎は、いまだ正当に評価されていない作家だと思っています。
本来は、漱石や鷗外、少なくとも志賀直哉や芥川龍之介と並べて論じて良いのではないか。それが娯楽ものの作家として一段低く評価される理由は、あまりに大衆的な人気を獲得しすぎたこと、その作品がいわゆるチャンバラものだと思われてしまうこと、それから、これという代表作に欠けることなのでしょうか。
周五郎は、作品が仕上がると編集者に読ませてその評価を求めたのだそうです。それが行われたのが間門の家で、仕事場にしていた旅館間門園。上出来ということになると、編集者と共に徒歩で山を越えて、当地の北の「吉野町」界隈、磯子とはまた別の花街だった「日本橋」の料亭「やなぎ」に行くのだそうです。そこで大騒ぎをする。
ではなぜ山本周五郎は磯子の料亭に行かず、吉野町だったのか。それは磯子の料亭群が接待用だったり、海軍さんが多かったりして、周五郎一行とは客層があわなかったためなのかも知れません。

ともあれ、周五郎の作品のどこかに、潮風の香りが感じられたとしたら、それは磯子の海の香りなのかも知れません。

 

IMG_0001_4 八幡橋から浜のあたりを望む。

この写真に火力発電所が二基(石炭と天然ガス)、液化天然ガスの基地、かつては東洋一と唄われた製油所が写っています。

久良岐の山側は、狐火が燃え蛍の出る草深い郷でしたが、海際は、かつては垢抜けた高級リゾート、今は立派な工業地帯なのです。

 

(おまけ)

ジブリのアニメ映画、『コクリコ坂から』は、横浜が舞台で、海を望む岡にある下宿屋さんが舞台です。作中の地理は現実の横浜と違っていて、所詮は架空の土地というべきなのでしょうが、間門から根岸のあたりも条件に合うような気がします(小港からワシン坂のあたりなのかも知れませんが、そこからだと海は遠いのです)。コロッケを売っている商店街は麦田あたりでしょうか。だとすると市電は11系統となります。

主人公の友人の少年は横浜橋か浦舟町あたりの自宅から、小舟で本牧をぐるりと回って、間門あたりの沖から、信号旗のはためく岡を眺めたのでしょうか。

作中で、日本郵船の船長さんから親切にされるのが本牧沖のあたり。つまり山本周五郎の仕事場から見えるあたりということになりそうな気がします。