ロケット飛行機とオートマ車(久良岐と昭和史の断片 その7)

ロケット飛行機とオートマ車(久良岐と昭和史の断片7)

 

当地久良岐郡本牧領の南のあたりには、「バブコック」の大きな工場があったり、英国人の造船所があったりしたのですが、工場といえば、あといくつか触れなければならないことがあります。

ひとつは、「ポンコツ工場」です。なにぶん市街地を外れた「秘境」(岡村天神はそう思われていました)なので、廃車を集積するヤードが必要な廃車工場が立地しました。ずいぶん小さくなりましたが、いまだ立派に営業中で、看板に「中古部品流通のパイオニア」という意味の看板が出ています。

もう一つは、オカムラブランドで身近な、岡村製作所です。オフィス家具でもオカムラ製と言えば、ちょっと高級な感じでしょうか。その岡村製作所がなぜ当地と同じ岡村の名を冠しているかというと、それは当地、それも当研究所のすぐ近く(直線で50メートルくらい)が、創業の地だからなのです。

ではなぜそこに岡村の工場があったのか、そのあたりは、土門拳が狐の嫁入りを見たあたりではないのか、というと、それもその通りなのです。

時系列で整理してみます。

かつてこのあたりの丘の上は、縄文人、弥生人が住み着いた地だった。(ちょっと前まで土器なども拾えました)

鎌倉時代には、有力御家人平子氏の城館があり、畑や田のなかに家人の家などが点在していたことでしょう。鎌倉ゆかりの寺、龍珠院などもありました。
鎌倉滅亡の時には、落ち武者たちが通過し、またこの地で命を落としました。

近代になり、谷戸の一つに菖蒲の畑と金魚の養殖池が出来ました。どちらも衰微しましたが近年まで残っておりました。菖蒲は鉢植えにして床の間で鑑賞するもので、かつてはお旗本などに愛好されたものだと言います。

一方、海岸部には横須賀の軍港に行き来する海軍の姿がありました。金沢の日本飛行機は、川西航空機や三菱航空機などの水上機や爆撃機の制作をしています。斬新なロケットエンジンの戦闘機「秋水」は三菱の設計ですが、この地でも制作されているようです。
また、米軍に、バカ・ボンブとあざ笑われた悲劇の特攻専用機「桜花」の主翼なども制作したと言うことです。これは人間を誘導機器として、爆撃機から離脱させた爆弾付きロケット戦闘機で敵機や艦船に体当たりするのですが、射程距離に到るまでに母機の方が落とされてしまうという悲しいものでした(木更津のあたりには地上打ち上げカタパルトも作られました)。

さて、その工場の一部が疎開していて、この地、あのゆずの通った中学のすぐ裏にあったようです。裏と言うより、中学の校庭を半ば使って、軍需工場が操業していたということです。

その日本飛行機、略してニッピは、GHQによる航空機産業の解体にあいます。エンジニアたちの一部は独立し、技術を生かして生き延びようとした。そこでこの中学の敷地の疎開工場を使って、航空機部品として残っていたアルミ合金(アルミとする本もありますが、たぶんジュラルミンなのでしょう)を用いて、それこそ鍋釜を作って糊口の資とした。その後、工業生産技術は家具製造に生かされるのですが、エンジニアたちの技術は高く、それに飽き足らなかった。
講和条約の後、彼らは、日本大学と共同で、民生用飛行機を開発し、それに成功するのですが、商業ベースに乗せることは断念しました(N-52)。日本大学の航空技術の優秀さは、毎夏の「鳥人間コンテスト」で有名ですね。

さて、次に彼らは、「自動車」、それもオートマチックでFFという、現在の普通、当時の先端のクルマを企画し、その制作に成功しました。「ミカサ」と言います。1957年の五月のモーターショーでデビューということですから、筆者が世に生まれる直前のことです。それは、斬新な機構のクルマで、つまり日本初のトルコン・オートマ、FF車、ついでに水平対向エンジンなのです(インプレッサみたい)。
トルク・コンバーターは精密な機構で、制作がむずかしい機器のはずです。それも岡村は自作したとのことです。しかし、「ミカサ」の生産は1960年に中止されました。資金を供給する日本興業銀行が、自動車についてはホンダ押し、として、岡村は家具で行くべしと指導したと聞いています。この銀行もバブルと共に消えましたね。
もしこの時の、銀行の決断が逆だったら、世に「オカムラ」のクルマがあふれていたかもしれないのです。

3年間で送り出された「ミカサ」は約250台ということです。スポーツタイプ、ツーリングタイプもあったようです。その写真を見ると、なかなか流麗で美しい。東京都千代田区の「オカムラいすの博物館」に展示されているのだそうで、見に行ってみたい。
岡村のトルクコンバーターは現在も現役で、フォークリフトや産業機器のために追浜の工場で生産されていると言うことです。また、1951年開発のトルクコンバータは、一般社団法人 日本機械学会により「機械遺産」に認定されました。
さきに触れた明治7年の「堀割川」が土木遺産ですから、当地には遺産がいくつもあるということですね。

当地には、流量計の草分けであるオーバル機器や、船舶エンジンなどに欠かせない「フィルター」を作る神奈川機器工業など、渋い技術系の工場があったり、現役で操業していたりするのです。