磯子のプリンスホテルと杉田の乾ドック (久良岐と昭和史の断片 その3)

磯子のプリンスホテルと杉田の乾ドック

1 『春の雪』『午後の曳航』と横浜市電6系統
2 大岡昇平の『事件』と酒鬼薔薇聖斗事件
3 狐火とブルドーザー

表題を見て、すぐに三島由紀夫の話だと気づいた人も多いのではと思います。

「その2」で触れた海近くの間坂のひばり御殿は「磯子旧道」の近くですが、その坂を登り切るとかつて横浜プリンスホテルがありました。西武のプリンスですから、もと宮邸で、東伏見の宮の別邸がその邸宅をそのまま生かしてホテルになっていたのです。

IMG_0001_1 磯子旧道 IMG_0003 これはプリンスホテルへの取り付け道路(プリンス坂)ちょっとだけ海が見えます

私のような久良岐のあたりの住人は、誰でもいろいろ思い出の多いところ。叔母が結婚式を挙げたとか、叔父が法事をしたとか・・・
その閉鎖の前のころ、サッカーのワールドカップがあって、決勝は横浜の北の方にあるスタジアム(現日産スタジアム)で行われましたが、いくつかのチームがこのホテルに投宿していました。ここからでしたら、環状2号という道路が通じていて便利なのです。
そのころこのホテルには大きなガーデンセンターがあって、ある日曜日、私が散歩がてら花苗を見に行ったら、なにやら交通規制。ちょうどブラジルチームがバスで移動するところでした。
私もロナウジーニョに手を振ったものです。ロナウドはバスの向こう側に乗っていたみたいです。

その跡地はいま大規模マンションになっていますが、肝心の邸宅は残されていて、料亭などがテナントとなっていて、料理の鉄人の店もあり、気軽にお茶なども出来るようです。私は、その下にあるスーパーのマルエツに買い物に行きます。

その邸宅、つまりかつての宮様の御殿は、三島由起夫の最後の作品『豊饒の海』の『春の雪』に出てくる宮邸のモデルになったとされています。三島はホテル時代に訪れたのでしょうか。

IMG_0004 マンションの中の旧宮邸

宮邸時代からこの邸宅にはプールがあり、ホテル時代にもプールは設置されていました。
宮邸時代にはもっとやんごとない方も泳いだことがあるという話を聞いたことがあります。『豊饒の海』の第三部『暁の寺』に出てくる御殿場の別荘のプールのモデルは、あるいはこのプールかもしれないと思っています。
私が小学生の頃、クラスメートには、そのプールで泳いだことのあるのが何人かいて、皆で羨望したものです。

さて、その『春の雪』が『新潮』に発表されたのが1965年(昭和40年)9月号から1967年(昭和42年)1月号。
ということは、三島が取材にこのホテルを訪れていたとしたら、それはこの1965年の夏以前ということになります。
根岸線の桜木町、磯子間が開通したのが1964年(昭和39年)5月19日つまり東京オリンピックの年で、私が小学校一年生のとき。小学校から見える電車は、まだ青い103系ではなく、72系というらしい焦げ茶色の車両でした。たまにしか走っていなくて、見えると嬉しかったものです。
三島が開通したばかりの電車に乗って来たとも思えず、クルマで颯爽と来たのでしょうが、もしその時点がもう少し前だったら、あるいは市電に乗ってきたのかも知れない。このプリンスホテルの下には、桜木町方面から来る市電が通っていました。

三島は、この市電路線について知っていました。たぶん実際に乗ったこともあるのだと思います。
それは、海外で評価の高い三島作品である『午後の曳航』の中に、この市電が登場するからです。この作品が書き下ろしとして発表されたのが、1963年(昭和38年)9月10日で、根岸線の開通一年前です。
作中では、少年たちと、そのひとりである主人公の母の婚約者となった二等航海士が、市電で元町近くから杉田まで来ます。杉田は磯子のさらに先です。そこから一行は、少年たちが「乾ドック」と名付けた「秘密基地」に向かい、カタストロフに到るところで作品が終わります。

つまり、1963年の夏以前に、三島は市電に乗って杉田まで行っているのだと思われます。取材の帰りにプリンスホテルに泊まったのかも知れません。
ところで、元町近くから杉田までというと、じつはぴったりの路線がありません。11系統という、元町から本牧を経て根岸(あの飛行艇の飛行場があったあたり)を通る路線が13年間だけあり、このときも通じていましたが、それは杉田はおろか磯子の手前の葦名橋が終点。乗り換えが必要になります。
直通だったら、元町から少し歩いて、薩摩町または花園橋(後に横浜スタジアムが出来ます)あたりで6系統に乗れば、中村橋、滝頭(美空ひばりの生地)、間坂(ひばり御殿がある)を経て、杉田まで直通で行けます。しかし、少年たちが集合した元町プールからこの電車の停留所までは、実は少し遠い。
まあ、文学作品だから、そのへんは融通を利かせたのでしょう。しかし、中学生が午後ちょっと足を伸ばしてと言うには、杉田はすこしばかり遠すぎるように思います。

『午後の曳航』は映画化されていて、その舞台は美しいイギリスの海岸地方になっています。三島の作中では、海を望めるものの、宅地造成の音の響く殺風景な丘として登場します。
その丘は、当研究所から歩けば一時間ほどの距離で、かつての久良岐郡の南のはずれ。
かのプリンスホテルからは、20分くらい。ただし、道中にものすごい階段があります。汐汲み坂という名も残りますが、桶を担いでは登りたくありません。

『午後の曳航』のカタストロフ、つまり殺人と解体は、神戸の「酒鬼薔薇聖斗」の事件を予告したとも言われ、そのように言及する向きもあるのですが、因縁話もあります。

釈放された酒鬼薔薇聖斗青年は、どうやら、ある時期この地に住んでいたらしいのです。未確認ですが。

そもそも、この地は「少年殺人犯」と縁があります。
大岡昇平の小説『事件』は、実際の事件に取材したもので、くり返し映画やドラマになっていますが、この作品の舞台にこの地が出てきます。
厚木近くの山林で「殺人」を犯した青年が、少女と隠れ住むのが横浜の磯子、つまりこの地なのです。野村芳太郎監督の映画では、私の見慣れた風景を、永島敏行や大竹しのぶが歩いていたりします。
それは八幡橋の近くです。『午後の曳航』の少年たちを乗せた6系統も、元町から来た11系統も、共に、ここを通ります。

(実際にこの事件の少年が住んだのはもうすこし南、葦名橋のあたりらしい。そこもこの市電が通る地です)

1963年ごろというと、あの狐火が燃えた岡村の丘が宅地に開発され、狐火も消えてゆくことになる、まさにその時期です。『午後の曳航』の舞台はそこから尾根続きです。作品の中で響く土地造成の「ブルドーザー」の音は、その緑の山を切り開く音なのです。

大づかみに言えば、港に近い横浜の市街(『午後の曳航』の邸宅があったりする)からはずれていて、そのころは古い下町となっていた滝頭(屋根なし市場があったりする)のような町でもない、これから開発される造成地に、少年たちの孤独と共鳴する独特の「何か」があったのだということなのでしょうか。