1 我が物顔のウグイス

 

藤原定家『藤川百首』の歌について、

皆さんの意見を聞きたいのです(その1)

 

古来藤原定家作と信じられた『藤川百首』の「隣家竹鶯」は次の歌です。
御意見をうかがいたいのは、このようなヘンテコな歌が、本当に藤原定家の作なのだろうかということ。

山賎の園生に近くふしなれて我が竹顔にいこふ鶯

賤しいヤマガツがわずかに作る畑だろうか、その近くの竹藪に巣を作って寝床を定めた鶯の様子が歌われています。そのヤマガツの所有する竹であるのに、まるで我が物のように鶯がくつろいでいるという〈のどかな〉春の景色を歌ったようです。

この歌を成り立たせているのは、「臥し慣れて」と竹の「節」です。つまり、鶯がフシ慣れるのは竹のフシであるという秀句です。
フシ慣れているからこそ、鶯は、「我が竹顔」に憩うのだというのでしょう。

さて、竹薮でリラックスする鶯は、和歌の素材としてアリなのでしょうか?
また、藤原定家の春歌として、我が物顔の厚かましい?鶯はアリなのでしょうか?

定家が竹に訪れる鶯を歌った例としては、次の三首が挙げられます。

鶯の宿しめそむる呉竹にまだふしなれぬ若音鳴くなり
(早率露胆百首 春 鴬 全歌集 四〇四)

訪ひ来かしひとよふたよのへだてかは鶯来ゐる宿の呉竹
(員外雑歌 一句百首 春三十首 勒句 うぐひすきゐる 二八九五)

春来てはいくよもすぎぬ朝といでに鶯来ゐる窓の群竹
(後仁和寺宮道助法親王家 詠花鳥和歌二十四首 正月 鴬 一八九六)

いずれも、「ふし」「よ」「竹」を縁語・掛詞として用いている歌です。

「宿しめそむる」は、呉竹に「臥し慣れない」鶯の、初々しく可憐な「若音」を歌って、それが早春のみずみずしさを表現しています。

「訪ひ来かし」は、竹の一節二節(ひとよふたよ)に春の一夜二夜(ひとよふたよ)を重ねて、山家に宿り初めた閑居の人の人恋しさを歌います。鶯は春の点景で、そこが山深い住処であることを示しています。歌われているのは、もとより鶯の心中ではありません。ヒトの心中です。

「春来ては」は、春の時の移ろいの速さを「幾夜(節)も過ぎぬ」のだけれど、と歌う。はや鶯が訪れた早春の朝の景を歌った歌です。

いずれも、春の景物として、みずみずしく景物としての鶯や、竹の色彩を歌おうとする姿勢を見せています。

それに対して、『藤川百首』の「山賎の」の鶯は、「ふし慣れて」「我が竹顔に憩う」のであり、景物としての鶯ではなく、鶯の心中が忖度されています。
この歌では、春の景にふさわしい〈ういういしさ〉や、景物としての鶯や竹の美しさには視線が向かっていません。

ところで、題の「隣家竹鶯」は、素直に理解すると、わけあって山家で閑居する人がいて、そこに鶯の声が聞こえるが、それは我が庵の竹に訪れたのではなく、隣家の竹に宿る鶯であった。しかし閑居のことであるので、それもまた一興である、といったことでしょう。作品内主体は、閑居のヒトであるとして作歌するのが普通だと思います。

それなのに、この歌は、あえて鶯の心境を持ち出して、和歌世界をことさらに複雑化しようとしているように思えます。

とはいえ、〈臥し慣れたウグイス〉の表情に、詩的興趣はあるでしょうか?
また、鶯が「我が竹顔に」、つまり自分の竹のように憩うといいますが、他人の竹だから遠慮してこっそり憩う鶯などあるでしょうか?
また、鶯がそういう〈慣れた〉風情を見せたとして、それに興趣はあるでしょうか?フシ慣れた鶯自体に詩情は乏しいように思うのです。

なお、末句「いこふ鶯」は、異文に「いとふ鶯」ともありますが、「いとふ鶯」にしても「いこふ鶯」にしても、定家の全歌集に例を持たない珍しい表現です。

これが藤原定家の作歌なのでしょうか。あるいは稿者の読み方が間違っているのでしょうか。
広く御意見をお待ちしたいのです。

Kusano,Takashi 2015/06/11