定家は自分の後鳥羽院への思いを公開したかったのでは?

9 『百人秀歌』や『百人一首』はともかくとして、定家は後鳥羽院追慕の念をどこかに表明したり、それを籠めた作品を作成する必要があったのではないでしょうか?

 

そもそも定家の後鳥羽院に対する意識は複雑なものでしたが、その定家の「思い」については、同時代の人で、すこしでも藤原定家の人となりについて知る者でしたら、多かれ少なかれ誰でもが知っていることであり、定家にはそれを隠蔽する必要などなかったものと思われます。

最初に、『新勅撰和歌集』の撰歌に当たっての定家の態度を思い出す必要があります。
定家は、後鳥羽順徳土御門の三院の歌を、当然のようにそこに撰び入れていたのです。他の歌人と区別していないようで、相応な敬意が払われて、結構な歌数が撰入されていました。
このとき定家は鎌倉政権の意向を気にした様子など全くありませんでした。後にそれを気にしたのは九条道家で、定家ではありません。
当時の歌人たち、あるいは貴族たちは、定家がかつて後鳥羽院と蜜月時代を持っていたことも、その後、些細なこと(芸術論なので実は深刻なのですが)で仲違いして、定家は「院勘」をこうむって逼塞したことも、定家の息子の為家が後鳥羽院に愛されていて、院が隠岐に去るとき、為家はそれに供奉しようとさえしたこと、そしてそれは父親定家が制止してしまったことなど、すべて周知のことでした。
だから、定家は自分の後鳥羽院に対する複雑な思いを、世に隠蔽することなど必要なかった。
また、もし万一、定家が気を変えて、後鳥羽院に、かつての対立を水に流して仲良くしようとメッセージを送りたければ、家隆あたりに頼んで文なり歌なり送れば良いところです。
そういうことができないし、また、あえてそうしないのが、オトナの世界の意地であり、沽券であり、複雑微妙なところでしょう。

たとえば人気タレントが所属芸能プロダクションから脱退するという騒ぎがあって、そのタレントさんが、恩義あるプロダクションの社長に、言いたいこと、伝えたいこと、恨み辛みか感謝の念か、ともあれあれこれがあったとして、それを、たまたまその時に依頼されていた所属する別のグループのために作った新曲の歌詞の中に秘かにはめ込む必要は、ありません。
複雑微妙な「ホントウのトコロ」を、そんなものに籠めるはずもないし、その必要もないことです。
定家が『百人一首』に後鳥羽院へのメッセージを秘めた、というのは、これと似たようなことで、本来ありえないことなのだと思います。
ややこしい思いは、心の内にしまっておけば良いのではないでしょうか。