定家の撰ではないとすると、『百人一首』の価値はなくなった?

12 『百人一首』が藤原定家のあずかり知らない撰集だとしたら、その価値はないということでしょうか?

いいえ、『百人一首』の歌は、そのすべてが藤原定家の撰になるものです。また、歌集としてあるいはカルタとして、四百年近い長い年月、日本人に親しまれてきた作品で、その影響は計り知れません。カルタを楽しむ人も、歌を読む人も、安心して楽しめば良いのだと思います。
しかし、この歌々の来歴を良く知って、定家の撰歌の理由について知った上で一首一首の和歌を味わう時、そこにはさらに新しい世界が広がります。その世界は、深く、せつないものです。
また、こんな人がなぜ選ばれたのだろうとか、この人にはもっと良い歌があるのに、などと悩むことも、筆者の見通しによるとき、ぐっと少なくなるでしょう。
たとえば、『百人秀歌』の源国信や藤原長方について、これは謎の人選だとされたりしていますが、「謎を解く」の論理に依れば、その理由が明らかになります。
従来のパズル説などには、そもそも『百人一首』の撰歌がズサンであるとか、意味不明であるとか強調するものがありますが、成立の過程を理解して、この撰歌が持っていた本来の世界観について知ることで、そういう偏見や疑いからも、解放されることになります。