『百人一首』に後鳥羽院・順徳院の歌がある理由は?

10 なぜ、後鳥羽院、順徳院の歌が『百人秀歌』になくて、『百人一首』の方にはあるのでしょうか?

 

「謎を解く」で、この二人の院の歌を追加してほしいと定家にリクエストしたのは、蓮生その人ではないかと推測しました。これは筆者独自の見解です。
『百人秀歌』の段階では、両院の歌は選択の対象になっていなかった。しかし、両院の帰還拒否の決定が出されたので、蓮生は両院の歌を色紙に入れたいと考えた、というのが推測です。
この色紙の企画が進行中、この二人は、都を去ること遙かな隠岐や佐渡で苦海に沈んでいる人でしたが、そのまま辺地で流人として終わることが決まったのでした。
蓮生は、今すぐにではなくても、この山荘のどこかにその色紙を飾って、追悼・鎮魂としようと、考えたのではないかと推測しました。その結果、すでに出来ていて、蓮生の手元にあった稿本『百人秀歌』に、新たに両院の歌が追加されて色紙に書かれることになった。これは全く新しい仮説なので、大いに論議して欲しいところです。
結果として、為家が蓮生から相続したときの蓮生の山荘には、この両院の和歌色紙があったのだと思います。だから、色紙をもとに為家が冊子をまとめたとき、それはそこに取りこまれた。その冊子の歌を為家が操作して、歌順を変えたりちょうど百首にしたりして成ったのが、『百人一首』というのが考えられるストーリーです。そしてその過程(歌は『百人一首』だけれども並び順が『百人秀歌』というもの)の本も、写本として残っているのです(吉海直人氏によって異本百人一首と呼ばれています)。