人麻呂と赤人を対にした組

山柿・・・旅する万葉の下級官人、山の歌と海の歌

この二首は、ただ君命によって使役される下級の官人の旅の苦しみを歌う歌である。この障子和歌で、『万葉集』の歌は、天皇の歌二首に続いて下級官人の旅の歌二首、上級の官人の歌二首という整然とした構成になっている。

柿本人麿 (享年未詳)
三 あしびきの山鳥の尾のしだりをのながながし夜をひとりかもねん
山辺赤人 (享年未詳)
四 田子の浦にうちいでてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

(釈)
なまじいでは越えがたいような深い山。私は官命で都を離れ、そんな山峡を旅している。その山には、その名もヤマドリという名の鳥が住んでいるという。夜になると山を隔てて妻と別に眠るというその鳥の、垂れ下がる尾のように長い闇夜を、私は、今夜もただ一人冷たい寝床にあって、いとしい妻を思いながら寝なければならないのだろうか。

降りしきる雪の中、官命で駿河の国を旅ゆく。ようやく視界が開けた田子の浦という浜から見上げると、富士という名の山が聳えている。それまでは見えなかった高い山だ。この雪は、その嶺にも降り続いているらしい。雲間に見え隠れする純白の山の姿に、雪中の旅の苦しさが募る。
〔作者と歌〕 旅する官人の一人寝と恋

もとより柿本人麻呂は『万葉集』を代表する歌人である。というより、歌聖として神の如くあがめられる存在であった。定家の頃にはすでに人麻呂の絵姿が神像として祀られるほどであった。白河天皇のころのことだと言うが、兼房なる官人がその姿を夢に見て絵にした。その絵姿が広まったのだという。定家自身も、源通親の屋敷で行われた「人麻呂影供歌合」などに参加している。これは、人麻呂の絵姿を飾って行う歌合である。
人麻呂の秀歌のうちには、夭折の皇子皇女を悼む挽歌や、地方に残した妻を思う相聞歌、亡き妻を恋慕い血の涙を流す歌など、長大で重厚な作品が多い。その一方で、大伴家持が『万葉集』を編纂した時代にあって、すでに柿本人麻呂歌集という撰歌集があって、こちらは長歌ではなく民衆によって歌われたと思われる短歌が集められている。『万葉集』の無名の歌群には、その旨が注されている歌々が挿入されている。
さらに平安時代になって『人丸集』『人麿集』あるいは『柿本集』と呼ばれる歌集が作らた。人麻呂だけでなく、『赤人集』であったり、『家持集』であったり、万葉歌人たちの個人の名を冠したさまざまな歌集が作られた時代があるのだ。
定家の時代には、それらの歌集は、その名の歌人の作品を集めたものであると単純に信じられていたようである。『人丸集』に採録された歌も、すべてが人麻呂の歌であると考えられていたと思われる。
定家は、万葉の人麻呂の歌のみならず、これらの歌集の歌々から読み取られる歌人像をもって、人麻呂を捉えていたと思われる。これらは、古今集のよみ人しらず歌に近い歌風である。
つまり、持統天皇や草壁皇子に仕え、力強い長歌を作った史実の中の人麻呂が、定家の中では、鄙を旅し、都を恋い、一人残した妻を思って涙を流す下級官人としても存在した。撰ばれた「あしびきの」の作者を考える時、『人丸集』から読み取れる人麻呂像も考慮しなければならないだろう。
そうした和歌が示唆するのは、旅する下級官人という作者像である。これが、この障子の中の人麻呂を理解する鍵となろう。
すなわち、人麻呂は、身分の低い役人で、妻と別れ都を離れて流離し、そのつらさ、苦しみに涙する歌人なのである。

〔作者と歌〕 旅する官人と雪の中の富士山

注釈書類では、万葉歌の「真白にぞ」と、『百人一首』の「白妙の」の、表現としての優劣が論じられることが多い。実景を見ての驚きをすなおに歌うか、枕詞を用いて技巧的に歌うか、その長短が論じられて、技巧的な「白妙の」が退けられたりする。
右の釈ではあえて雪の中の旅と解した。現実には雪の降る日は富士など見えるはずがないのであるが、富士を実見したことのない定家の想念の内では矛盾していなかったのではないかと思う。『新古今和歌集』の中のこの歌は、降る雪を歌う一群の歌の中に置かれているからである。
赤人は六位以下の官人であったらしい。そして、人麻呂と同じく、時に天皇の行幸に従って、和歌を献ずる役を持っていた。長歌を詠じてもいるが、人麻呂の長歌の持つスケール感や迫力はなく、連作の短歌に才能を見せた。
人麻呂と同じく、万葉集の作者未詳歌をまとめた『赤人集』があって、やはりそれは古今集よみ人しらず歌に近い歌風である。定家の頃の歌人たちの知る赤人の人間像は、前歌の人麻呂と同様の身分の、一群の歌人の一人と言うことであっただろう。
赤人の和歌は繊細で優美だと評されるが、その和歌の中で、人麻呂の和歌世界にはないのものと言えば、富士山を詠じた長歌と反歌であろう。東国を旅した折のものと思われる歌である。人麻呂には東国を旅した事跡はない。
ところでこの障子和歌の施主蓮生は本拠地が宇都宮で、鎌倉に邸宅を持ち、京にも屋敷がある人である。だから、何度となく駿河国を経る旅を経験した人である。
定家自身は富士山を実見したことがないようだが、定家の周囲には鎌倉まで下向した者が多くいた。飛鳥井雅経などもそうである。旅する蓮生や雅経たちの姿を思いながら、人々から伝聞した富士山の偉容を、定家はこの障子に織り込むことを考えたのかも知れない。
つまるところ、定家にとって赤人は、東国を旅して富士を望んだ万葉の下級官人ということになろう。

〔二首の関係〕
旅する二人の歌聖。山の夜、海の昼
山柿の門という言葉がある。大伴家持が二人の歌聖をあげて「いまだ山柿の門に逕らず」と、自らの未熟さを嘆いた言葉で、『万葉集』の中に見える。ここから、家持の尊敬していた、ひとつ前の世代の大歌人を、古くから山柿と言い習わしてきた。ただし、「柿」が柿本人麻呂であることは確かとしても、山は山部赤人なのか山上憶良なのか、あるいは人麻呂ただひとりで「山柿」なのか、いまひとつ明らかではなく、いろいろと議論がある。
しかし、明治時代以前は、人麻呂と赤人が山柿だと誰も疑っていなかったようだ。『古今和歌集』の仮名序でも人麻呂と赤人を並べていて、甲乙付けがたい大歌人だと評している。藤原定家もそう考えていた一人かと思われる。だとすると、この二首は、下級官人にして大歌人だった山柿を取り合わせた二首だということになろう。人麻呂と赤人はもともとセットなのである。

〔問題となる点〕 なぜ人麻呂の数多ある名歌が撰ばれず、「あしひきの」が撰ばれたのか?

藤原定家のころの人麻呂の歌人像は、格調高い長歌を詠む歌人と言うより、地方を流離した下級官吏という印象が強かったためだろう。もとよりこの障子の色紙に、長歌は撰ぶべくもない。

〔次の歌や一連との関係〕

下級官人と上級官人

前の組の天智天皇と持統天皇が貴人の組み合わせであるのに対して、この二首は庶民に近い官人の組み合わせである。下級官人らしく旅に生きる中の哀歓が結晶した歌々から、最も名のある歌人の、山の歌と海の歌を取り合わせたということになろう。合わせて、人麻呂が妻のいない夜のわびしい一人寝を歌って、悲しみに沈むが如きであるのに対し、赤人の歌は海山の大景を描いて爽快である。前の天智・持統の組と同様に、内向する〈クモル歌〉と開放的な〈テル歌〉が対比されている点も注意されよう。