5 風は吹いているのか?

藤原定家『藤川百首』の歌について、

皆さんの意見を聞きたいのです(その5)

 

風は吹いているのか?

 

寒夜水鳥
置き留めず松を嵐の払ふ夜は鴨の青羽の霜ぞ重なる   三六二〇

厳冬の湖畔の歌でしょうか。

釈してみると、「松の葉に置く霜は、折からの夜の嵐に吹き飛ばされている。そんな夜を水上に休む鴨の青い羽根の上には、霜が幾重にも重なっている」というところでしょうか。
松葉と鴨の羽という、二つの景物によって、水鳥の静かに休らう水辺の冬が描かれています。一見おかしなところはないように見えます。

まず、「あをば」ですが、「青羽」の古い例は、『万葉集』の巻八、三原王の歌です(一五四七・一五四三)。

三原王歌一首
秋露者 移尓有家里 水鳥乃 青羽乃山能 色付見者
あきのつゆは うつしにありけり みづとりの あをばのやまの いろづくみれば

枕詞なので、鴨の羽の実体はないようです。この「水鳥の青葉」は、『源氏物語』にもちらりと登場します。ここでも、「羽」ではないようです。

水鳥のあをばは色もかはらぬを萩のしたこそ気色ことなれ 源氏 若菜上

紫上と共に手習に興じる源氏が、女君の歌に答える歌です。この「あおば」は、枕詞こそ「水鳥の」ですが、「青葉」の方です

青羽の霜というと、次のような歌があります。

川風のここらさゆれば浮き寝する鴨の青羽に霜やおくらん   一〇一七 師時集

こんなに川風が冴える夜は、水に浮いて眠る鴨の青羽に霜が置くだろうかと想像しています。風が霜を呼ぶような詠み方です。
鴨の羽に雪が積もる様も歌われます。

屏風ゑに
むれゐたる鴨の青羽もみえぬまで庭白妙に雪ふりにけり 四五 藤原輔尹集(玄々集にも)

しんしんと庭に積もる雪は、ひしめいて静かに眠る池の鴨の群にも積もってゆくというのです。当然、この雪は、積もる雪を吹き飛ばすような吹雪ではありません。

ところで、鴨を歌った定家歌は結構多いのですが、調べてみると、「鴨の青羽」を歌うものは一首もありません。定家の「あをば」はすべて植物の「青葉」なのです。

冬枯れて青葉もみえぬ群薄風のならひはうち靡きつつ
後鳥羽院老若五十首歌合五十首 一七一一

次の歌の霜が重なるのは、日数によってなのであり、衣に置く霜が厚くなると言うことではありません。

置き明かす霜ぞ重なる旅衣たみのの島は来てもかひなし 順徳天皇内裏名所百首 一二五五

定家が、氷結する水面の鴨を歌った歌もありますが、その鴨はちっともおとなしくしていないようで、羽に霜が重なったりしていません。

葦鴨のさわぐ入り江につららゐて重なる霜の幾重さゆらむ いろは四十七首二度 三〇七四

つまり、定家の場合、水辺の鴨の、その羽に霜が置くという景は、まず歌われないのです。

さて、『藤川百首』の歌です。

寒夜水鳥
置き留めず松を嵐の払ふ夜は鴨の青羽の霜ぞ重なる   三六二〇

風が松葉の霜を吹き飛ばします。それほど冬の嵐が吹きすさんでいる。そのために、水辺で眠る鴨の羽には霜が重なると歌うのでした。
先にあげた藤原輔尹の「群れゐたる」では雪が羽に積もりますが、風は吹いていません。
師時の歌「川風のここらさゆれば」では、「風が吹いて寒いので」、鴨の羽にも霜が置くことだろうと歌います。

気象学というのか、物理学的に、「風が吹いて寒いので」、鴨の羽にも霜が置く、という現象が正しいのかどうかわかりません。風がなく、良く晴れていて、放射冷却で冷えこむ夜こそ、霜が置くのではないかと思います。しかし、それは少し置いておきましょう。

「置き留めず」は、風が強いので、羽に霜が置く、としています。すでに述べたように、「川風の」では、風が吹く夜だから羽に霜が置くだろうと歌うのだから、似た状況であるように思えます。しかし、「置き留めず」では、風が強すぎて松の葉にも霜が置かない、それさえ風が吹き飛ばしてしまうのです。それなら鴨の羽の霜も吹き飛んでしまうのではないでしょうか。

静かに眠る鴨の羽交いに霜が降り積むさまは詩的です。しかし、吹きすさむ風の中、それでも重なってゆく霜は、南極のペンギン並であるような気がします。しかし、たとえ南極のペンギンであっても、羽に霜が置くのだったら、松(は南極にはないけれど)にも置くし、松の葉の霜を吹き飛ばすのだったら、鴨の霜も吹き飛ばされるのではないか、ということです。

私には、やはりこの「置き留めず」は、焦点の定まらない、こね回しすぎた歌と思えるのです。

2016/02/07