織田正吉氏の『絢爛たる暗号 百人一首の謎をとく』をどう考えますか?

6 織田正吉氏の『絢爛たる暗号 百人一首の謎をとく』(昭和53年3月)は、藤原定家がかなりの時間をかけて作成していたのが『百人一首』・『百人秀歌』であるとしています。つまり、蓮生の依頼によって定家が作成した、山荘のための和歌色紙のための撰歌であるという考え方は、否定されています。この点について反論はありますか?

織田氏は、室町期の連歌師らによる伝承を重視していて、『明月記』に書かれた蓮生の依頼によって和歌が撰ばれ色紙が書かれたという一般の理解(筆者もその一人)を否定しています。(『絢爛たる暗号』。あるいは「定家は百人一首に何を隠したか」『エッセイで楽しむ日本の歴史 上』平成9年所収)
そこでは、『明月記』の記述について、これをそこに書かれた通りに素直に受け取っている国文学者たちの解釈は「話にならない」と一蹴されています。その理由は、国文学者たちの『明月記』解読がまちがっているからだ、としています。しかし特にその根拠は示されていません。もし論拠があるのなら明示して欲しかったところです。
さて、『明月記』の記述が、定家自身によって韜晦されたものである、つまりウソであるという可能性はないわけではありません。しかしその可能性は低いでしょう。なぜなら、これは「日記」だからです。定家は、世間に秘匿したいことがあったとしても、ここに書かなければ良いだけで、わざわざ曲げて書く必要はないのです。定家は常にそうしていたようです。たとえば主君についての批判、愚痴などはあまり書かないのです。書く必要もないのだし。(単なる愚痴は山ほど書かれています)
日記はいずれ誰かが読むだろうから、ホントのことは書かない、ということもありましょうが、感懐や思想についてならともかく、撰歌染筆の依頼があってそれを果たしたというような、事実関係について、ウソを書く必然性は低いように思います。
つまり、『明月記』の記述によって、定家が蓮生の依頼した、天智天皇から雅経に到る和歌色紙を染筆したのは確かだと考えられます。

ただし、定家が色紙にして蓮生に届けた和歌が、『百人秀歌』の歌なのか、別のものなのかは確定できません。確かでないのは、その色紙の和歌が『百人秀歌』なのか『百人一首』なのか、別の何かなのかという点なのです。
筆者は、それを、『百人一首』でも『百人秀歌』でもなく、『百人秀歌』を一部改変し、施主の依頼によって二首を追加した百三首だと推測しました。その理由は、「そう考えて矛盾がないから」です。ここは筆者の推測による結論ですので、ご批判をいただきたいところです。この百三首は、「謎を解く」に一覧として収載しました。