獄雨の完調日記 5

2015年8月8日

茨城よ、目指せ全国48位!

 

民間の調査会社・ブランド総合研究所(東京都港区、http://www.tiiki.jp/) が年に一回実施している消費者調査(全国3万人による「地域ブランド調査」)によれば、茨城県は2013年・2014年と2年連続で47都道府県のうち最下位という名誉?な結果になってしまった。茨城に住んで30年の私としては、この結果にいささか思うところがある。今回はこの点にすこしこだわってみたい。

ちなみに、1位~5位は、 (1) 北海道 62.7 、(2) 京都府 50.1、 (3) 沖縄県 43.0、 (4) 東京都 41.5 、 (5) 神奈川県 30.6 であった(後の数字はポイント数)、それから、41位以下は、 (41) 栃木県 9.9、 (42) 埼玉県 9.2、(43) 佐賀県 9.1、 (43) 徳島県 9.1、(45) 福井県 8.9 、(46) 群馬県 8.8、 (47) 茨城県 6.5 であった。

同社の調査報告によると(同HPにある)、認知、魅力、情報接触、観光意欲、居住意欲、 情報接触経路(「旅やグルメに関する番組」など 14 項目)、 情報接触コンテンツ(「ご当地キャラクター」など 6 項目)、 訪問経験(「行楽・観光のため」など 16 項目および訪問率)、 地域資源評価(「街並みや魅力的な建造物がある」など 16 項目)、 まちのイメージ(「歴史・文化のまち」など 14 項目およびイメージ想起率)、 産品購入意欲(食品、非食品をそれぞれ自由記述)などの74項目を、全国3万人のアンケートによって決まったらしい。

それにしても、46位の群馬と2ポイント以上離れているからダントツのビリである(笑)。これは成ろうったって成れない。普通、どんなに手を抜いても45位ぐらいにはなってしまうからである。

おそらく、ここには構造的な問題がある。茨城は構造的な全国ビリなのである。

こう書いてくると、獄雨先生ヤケクソ気味にモノ申す、という感じで受け取られるかもしれないが、そうではない。断じてそうではないのである。

 

この完調日記1でも書いたが、河瀬巴水が故郷東京以外で最も多く訪れた県が茨城であった。なぜ巴水が茨城にたびたび訪れたのか、今となっては定かでないが、ご令嬢の文子さんのお話や、他の様々な状況を鑑みれば、理由はどうも「茨城には何もない」からであったと考えられる。

もちろん、この「茨城には何もない」というのは本当に何もないわけではない。特別なものはないけれど、普通の自然や人、そしてその営みはどこにでもある、ということである。巴水はそうしたものを愛したのである。巴水が描いた茨城の風景にはこの「何もない」風景を描いたものが多い。たとえば巴水の傑作に「水木の曇り日」があるが、これはまさに茨城の漁村の何気ない風景である。晴れていないから海は青くないし、雪の降り積もった透明感のある白さもない。ちっとも美しくないのである。また、風もなく波も高くないので躍動感もない。ただただフツーなのである。

先のブランド調査の項目を見れば分かるように、この調査は、その地域に全国に向かって胸を張れる「何があるか」の調査である。「茨城には何もない」とすれば、この調査でポイントが低いのは当然である。

しかし、その土地で普通に生活するのに「何があるか」はほとんど関係ない。観光事業や週末に遊びに行く時にはちょっと残念に思うこともあるだろうが、たいした苦痛ではない。むしろ人口密度が高いことを嫌がる人にとっては好都合でもある。それを示すと思われるのが、東洋経済オンラインhttp://toyokeizai.net/articles/-/74144 が全国都市を対象にして毎年調査している「住みよさランキング」である。この調査は全国791都市の住みよさの調査だが、この上位50都市の中に茨城県の都市が3つも入っているところからすれば、茨城はそれほど住みにくい場所ではない(ちなみに、この住みよさランキングの調査自体も怪しいもので、4年連続トップの千葉の印西市は、安全度で791都市中666位とのことである。住みやすさにとって安全は極めて重要なはずだが、他の利便度・快適度・富裕度・住居水準充実度などという分けのわからない指標の羅列によって、安全度の低位はかき消されている)。

 

結論、茨城は日本全国でしゃかりきになって行われている「何があるか」レースから撤退すべし。そしてその枠外に出るべし。すなわち目指せ全国48位である。

 

ちなみに茨城の大学生に茨城が好きか嫌いかを聞くと、答えが半々になることが多い。面白いのはその理由が同じことである。嫌いなのは「茨城には何もない」からであり、好きなのは「茨城には何もない」ので落ち着いて生活できるから、というのである。昨今の安保法案に対するデモにしてもそうなのだが、若い人たちは、大人たちの作った「何があるか」レースの根元的な危うさに気付き始めていて、そこから降りはじめている。

 

gokuu01

染谷智幸(そめや・ともゆき)俳号は獄雨、切枝凡

専門は日本文学(江戸時代)、日韓比較文学

写真(著者撮影)はヘルシンキの小便爺さん、シュールである

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