その4 角田川の船団

4 角田川の船団

和歌の世界で角田川と言えば、あの『伊勢物語』九段で、昔男こと業平が「都鳥」に涙を流した川でありましょう。
その川を渡ったらもう帰れないとでも思ったのでしょうか、業平とわずかな友たちは、来し方行く末を思いつつ、川を渡る決意がなかなか出来ない。
「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」と、船頭に促され、ようやく乗った舟から、あの嘴と脚の赤いユリカモメを見るのです。

名にし負はばいざ言問わむ都鳥我が思ふ人はありやなしやと

言うまでもなく、あのなつかしい「都」という名を持つ鳥であれば、はるか都から飛来したのかも知れず、ことによると、あの思い人の安否を知っているかも知れない、と見立てたのでありました。
ここで「ありやなしや」と問うのは、心細く過ごしているであろう都の女人の安否でしょう。このウラには、あのオンナは旅だった私など思い捨てて頼りになる別の男に身を任せているかもしれない、という疑念もあるのかもしれませんが、そうすると、ひたすら自分を思う純真な「あの人」は、もうこの世に「ない」のだということになりましょう。
業平の一行は、浅間の山を望むあたりでも「ともとする人ひとりふたり」という人数だったようです。それぞれに下人が付いていたとしても、総勢十人は超えそうもない。また、その程度が「東下り」の人数としてイメージしやすいし、絵にもなりやすそうです。たとえば総勢二十人ではモノモノしすぎましょう。
カキツバタの咲く八つ橋のあたりでわびしく「かれいひ」(干し米)を分かち合う人数を考えても同様です。やはり二十人もの小隊だったら、あらかじめ先発隊が出ていて、火をおこして炊飯をして待っているかもしれない。
現実に業平が東に下ったことはないようです。また、もし同様な身分の貴人が旅をしたとしら、その一行の人数は思いの外多かったかも知れません。しかし、想念の内の「東下り」の一行はわびしげな小人数に違いないと思うのです。
ところが、『藤川百首』の旅人は大人数であるようです。

古渡秋霧
夕霧に言問ひ侘びぬ角田川我が友舟はありやなしやと

晩秋のことでしょうか、夕霧がたちこめていたといいます。だから、もう一艘の舟がどこにいるのかわからない。そこでどこに向かって(あるいは誰に向かって)「そっちの舟は無事か?」と尋ねることがムズカシイのだ、とうたうのです。
一艘の舟に乗れないのだから、十人以上の集団だったのでしょう。ことによると、友舟は、二艘以上だったようにも読めます。
夕暮れの川面に深い霧が立ちこめ、そこを舟がゆく姿は絵になります。しかし、それが「船団」だったら、ちと勇ましすぎます。
なにより、未知の土地をさすらう旅の心細さは、吹き飛ばされてしまうように思えるのです。

藤原定家は「友舟」を三首詠っています。一首は若いころの皇后宮大輔百首の秋歌で、琵琶湖の沖に出て漁をする蜑の舟々、次に良経が雪の朝に思い立って定家に詠ませた十首歌の「雪中遠望」。雪に難渋しながら望見する先の舟の姿が詠われます。いずれも建久期と言われる後鳥羽院の登場以前の歌で、後鳥羽院初度百首や千五百番歌合百首など後鳥羽院歌壇では、「友舟」は一首も歌われていません。ただし、後に、順徳院の内裏名所百首の「明石浦」では、海上の蜑の舟が歌われました。

明石浦
ともしびの明石の沖の友舟も行く方たどる秋の夕暮

明石の沖に「ともしび」を歌うのは『万葉集』の人麻呂以来の歌い方です。灯火というのに、夜のとばりがおりかける、暗く見通しの悪い海上を、それぞれに家路をたどる蜑の小舟が歌われます。
これらに共通するのは、歌を詠じている人が、湖上や海上の蜑の舟を望んでいる歌であることです。つまり自分が舟に乗っているわけではないのです。しかし、この『藤川百首』の歌は「我が友船」と歌っていて、まったく異なっています。

もうひとつ、定家が一生にわずか三首しか歌わなかった「友舟」ですが、この『藤川百首』では三首も歌われているのが不審です。(ちなみに他の二首も遠望される友舟ではないように思えます)
船団のこと、遠望のこと、そして詠歌頻度のこと。わたしの『藤川百首』偽作説によれば、偽作者が友舟が好きで、自分も舟に乗った歌をうたい、百首にうっかり三回も歌ったということで解決できますが、真作説の場合、どう説明するのでしょうか。

2015/10/26