藤川百首

 

 

 

 

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『藤川百首』は、一般に藤原定家の作と考えられていて、定家の沈淪の時期の私的な作品とされることが多い。また、定家の実験的な詠作の集成とされることもある。
本稿は、この藤原定家作とされる『藤川百首』を偽書と考え、その根拠を述べたものである。

紀要論文。
星美学園短期大学研究論叢 三八 平成一八年三月 藤原定家『藤川百首』考(一部修正)
もと、和歌文学会例会にて発表。一九九五(平成七)年十一月一八日。 400字×122P

目次
一 はじめに 3
二 二つの藤川百首 3
三 三つの関路 9
四 雨夜の星 14
五 親の諫め 23
六 六位の定家 37
七 六十路の友 41
八 霞む藤川 46
九 閏七月 53
十 海辺と羇旅 59
十一 霞の下 67
十二 おわりに 69

(結論部分抜粋)

室町期以来藤原定家の作とされてきた『藤川百首』は、題の選定、歌語の使用、詠歌内容のいずれをとっても、藤原定家の他の作と比較して、藤原定家らしい細やかな配慮に欠け、整備された百首とは言い難い性格を持つ。また、『藤川百首』の歌を先入観なしに読んだとき、その全編に述懐性があるとも、憂愁が覆っているとも思えない。
定家『藤川百首』の述懐歌数首からは、我身の沈淪の訴えかけが読みとれるが、一般の百首にまま見られる述懐と比較して特別なものとも思えず、その述懐歌の示す定家が六十歳の頃、つまり貞応三年(定家六十三歳)あるいはその前後の時点において、定家がそのような述懐をする蓋然性は乏しい。
また、同じ時点あるいはその前後において、定家が自らの発意によって私に〈百首〉を詠出する理由が見あたらない。この時期の定家は、古典籍証本の書写整備、家説の整備に向かっているのであり、あらたな創作の意欲があったとも思えない。もとより定家は与えられた機会に詠作する歌人であるようで、若年期を除いて、特に定数歌において、興のままに百首を詠ずる例はない。
一方、この貞応三年七月に定家の息藤原為家が、自身の習学のために藤川題の百首を詠んでいる。これが、仮に定家の百首に呼応して詠まれたものであるならば、定家による述懐性を持つ歌に対して、為家はそれに答えて歌おうとすることが考えられるが、その痕跡はないようである。また、為家の藤川題百首の詠風は素直なもので、特に定家の『藤川百首』の歌風を意識した形跡もないようである。この為家の藤川題百首は、この時期にあって為家が繰り返し詠んでいた一連の習作の百首のひとつと考えて矛盾がない。
また、定家『藤川百首』には、為家の藤川題百首と一部歌順が異なる部分があるが、これは為家の藤川題百首の方が当初の形をとどめるものであると考えるのが妥当と思われる。

ところで、定家『藤川百首』の持つ、定家らしさに欠ける意を尽くさぬ表現、あるいは衒学的な表現の存在は、この百首の解釈に困難をもたらしているが、この難解性が、かえってこの百首に一種の神秘的性格を付与することになった。中・近世における定家『藤川百首』の註釈の流行の一因は、この難解性にあると思われる。これは、現在定家仮託の書とされる『未来記』『雨中吟』などの受容のあり方と通じるところがありそうに思われる。
右のような諸要素は、さながら縺れ合った糸玉のような様相を呈しているが、通説のように『藤川百首』を定家の作と考える限り、これらを統一的に説明して解きほぐす論理はなかなか見い出し難い。定家『藤川百首』を定家真作とする積極的な根拠が見いだせない限り、定家『藤川百首』は、『未来記』『雨中吟』あるいは『定家卿自歌合』の如き仮託の書であって、その出現は、為定によって藤川題の百首が詠まれたころから、『題林愚抄』の成立以前の百年間あまりのうちであると考えるのが妥当かと思われるのである。

Edit 久良岐古典研究所 2015/06/06

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