ミニ『百人一首』写真紀行 おまけ 寝殿造と阿弥陀堂
高校生向けの教科書には寝殿造の特色として柱で支えられていて御簾や几帳を用いていた空間が示されます。
日本でも数少ない、時代考証を経て復元された寝殿造りの建物である「えさし藤原の郷」伽羅御所も、そういう作りです。
だから「ふすま」つまり襖障子がないのです。(平安末頃は今のフスマを障子と言います。ややこしい)
今の障子は、「あかり障子」ということになりますが、どれくらい使われていたかは不明です。
これはその東の対。
御簾と几帳が見えます。ふすまはありません。
角度を変えるとこんな感じ
これでは寒い東北(岩手)の冬はつらかったでしょう。女房たちも凍えたはず。
もっと以前、『源氏物語』のころには、すでに唐紙(カラカミ)を貼った「ふすま」が発明されています。
だって『源氏物語』にも出てきます。平安末の『源氏物語絵巻』にもしっかりその絵が描かれています。
この「あたたかい」ふすまなるものが、『源氏物語』の頃から二百年たっても、東北に伝えられなかったはずがありません。
牛若丸を奥州に伴ったのは金売吉次と言いますが、私がそういう商人だったら、まずまっさきにフスマなるものを伝えます。
「あったかいんだから、これ使うと良いですよ、京でもみんな使っていますよ」と。
こちらは寝殿造につきものの南庭の池と中島、そこに渡る橋。(むこうにちらりと見えるのは平泉の阿弥陀堂の縮小版。平等院鳳凰堂とそっくり)
蓮生は僧ですから、こういう建てものを一つ、仏間にしていたと考えています。
中に阿弥陀如来が祀られていて、そこはすなわち極楽浄土の再現となっていた。
奥州平泉の中尊寺では、それは黄金燦めく立体曼荼羅世界なのです。
蓮生も相応に荘厳していたに違いない。
そこに渡るのが、この橋。池は極楽の蓮池であり、かつ三途の川と重なります。
御存じ宇治平等院阿弥陀堂。
巨大な阿弥陀如来と飛天があります。また極楽往生のさまざまが描かれた絵が飾られています。
『百人一首』の歌が、このような堂の内部にあったら、それはヘンです。
この鳳凰堂では、浄土経典のサワリが色紙となっていますが、当然それはふさわしい。
では、蓮生は藤原定家が撰んで色紙にした歌をどこに飾ったのか?
蓮生の山荘の定家の和歌色紙は、橋と池を渡った東の対あたりのふすまに飾られていたのであろうというのが推測です。
阿弥陀如来のいらっしゃる西の対は彼岸。華麗なる極楽世界。
北の対の南に、南池。
東の対は、此岸(この世)。この東の対にあるのは、苦海に沈む歌人たちの姿なのです。
四苦、八苦にあえぎ往生がなっていない人々です。
藤原定家が色紙のために撰んだのは、そういう不幸な歌人の歌なのだと考えます。
天智天皇も、小野小町も、みんなつらい人。
ただし紀貫之など、有名歌人は例外。さすがに貫之や俊頼をはずすわけにいかなかったのでしょう。