まとめ

(まとめ)
織田正吉氏の『絢爛たる暗号 百人一首の謎をとく』(昭和53年3月)では、『百人一首』に撰ばれた歌は秀歌撰としてしかるべき歌ではないとされますが、定家の撰んだ蓮生の中院山荘障子和歌(103首)は秀歌撰として計画されたものではないのだから、それは必然の帰結です。
『百人秀歌』に撰ばれた歌は、決して駄作ではありません。どの歌も藤原定家自身が他の秀歌撰に撰び入れている歌で、定家自身が立派な秀歌と認定した歌なのです。

織田氏は、『百人一首』のワケの分からない撰歌は、「言葉の連鎖」によって、秘めた暗号をそこに籠めるために歌を撰んだ結果だとします。そのためヘンな歌が多くなった。
しかし、『百人秀歌』を読み解いてゆくと、この、説明できない駄作の集まりという評価は、ファンタジーにすぎないことがわかりました。『百人秀歌』の段階で定家が撰んだ和歌はすべて蓮生の山荘の障子の歌としてふさわしい秀歌なのです。
織田氏が強調するほど『百人一首』の歌は駄作ではないのです。その歌人には、もっと良い歌があるのに撰ばれなかった、あるいは代表作として知られる歌が撰ばれなかったという点については、これが特殊な障子和歌であったことが理由です。
『百人一首』も、その原形である『百人秀歌』も、その歌の並べ方に問題があるとする見解がありますが、もとになった『百人秀歌』、あるいはそれを小改編して成った中院山荘障子和歌(103首)の歌順については、その配列はみごとに工夫されたもので、きちんと説明することが可能です。
中院山荘障子和歌は、きちんと配列された和歌撰です。それは道長の娘彰子の女房たちの歌を並べたあたりを見れば一目瞭然です。
一方、『百人一首』の配列には問題がありますが、それは藤原為家が作為的に歌順を改変した結果です。定家のあずかり知るところではありません。

なお、定家は、その後鳥羽院追慕の念をパズル解くことによって見えてくるという「暗号」や「メッセージ」を、「歌織物」に込めたというけれど、定家はそれをどうしたかったのでしょうか、つまり誰に見せたかったのかが説明できません。
自分の手もとに置いて記念にするのなら、暗号や歌織物にする理由がなく、「追慕百首」でも詠じて秘蔵すれば良いはずです。誰かに見せたかったのなら、それを蓮生のための色紙にする必要はない。
定家の定数歌にしても、撰歌にしても、基本的に「納入先」があります。暗号化して、何かメッセージを籠めるとしたら、それは一見しただけでは気づかれないための工夫でしょうが、定家がそんふうにしたくなるような撰歌集が発注されたことは記録にありませんし、その可能性も低い。
もし定家が秀歌撰を世に出すことが必要なら、いくらでも作ることが出来たし、歌論書にはそういう作品がいくつもあります。『詠歌大概』とか『近代秀歌』とか。

仮に、そうした定家の「危険な」思いが込められた『百人一首』が秘かに定家自身の手によって作成されていて秘蔵されていたとしても、それを、息子の藤原為家が筆写してあちこちに奉ることは考えにくいと思います。その一方で、為家のもとから出たらしい『百人一首』の写本は、存在しているのです。これは『百人一首』が秘密のメッセージなど含まない、「無害」なものだと為家が考えていたあかしだと思います。

最後に、数々の暗号論で繰り広げられる「解」は、定家の慣れ親しんだ方法論、あるいは和歌撰集というものに対する定家の規範意識と、相容れないものであることを指摘したいのです。
定家は若いころから、歌を並べるのに並々ならぬ精力を費やしてきた人です。『物語二百番歌合』や、『定家卿百番自歌合』、あるいは晩年の『新勅撰和歌集』の、緻密な撰歌と配列によって、いっそうその輝きを増す歌々と、謎解きの中に置かれて、パズルのピースとされた歌々はその価値が全く異なって見えます。配列によって、いっそう個々の和歌の示す世界が明確になり、味わいが深まるのが定家の撰歌です。
最晩年になって、藤原定家はなんらかの理由で、突然パズルに目覚めたのだ、というのなら別ですが、定家が生涯をかけて親しんだ和歌世界には、パズルのピースをもてあそぶような方法論はなかったものと思われます。