『百人一首』は秀歌撰ではない?

1 『百人一首』は、藤原定家が王朝を代表する秀歌百首を集めたものではないのですか?

『百人一首』の、一人一首という形式は、すぐれた歌人を百人撰び抜いて、その歌人の一番すぐれた歌を撰んだ、と思わせる形です。しかし、どうもそうではないようなのです。
撰歌の、「基本コンセプト」を見直す必要があります。
たとえばこれが、百人の歌人の最も切ない「思いのたけ」が吐露された歌を集めるというコンセプトによる撰歌だったとしたら、撰歌される歌はその人の最も有名な秀歌とは異なる、別の歌となることも多いでしょう。『百人一首』に見える多くの歌はそういう歌であるように思われます。

たとえば、その後半生を、尊敬するある人の死を悼むことのみに費やした歌人がいたとします。その人のたくさんの歌から、ただ一首を撰ぶとしたら、その歌が、めでたい賀歌だったり、晴れやかな景色の歌だったりしたら、いささか違和感があることでしょう。この場合、悲しみを帯びた歌がふさわしいと思われます。
※この例は、『百人秀歌』の源国信の撰歌の事情です。国信は『百人秀歌』の歌人で、『百人一首』では削除されている三人の歌人の一人です。

『百人一首』のもとになった百首あまりの歌の撰歌は、蓮生という僧の別宅の障子、つまりフスマを飾る色紙のために撰ばれたものでした。そのための定家が作成した草稿が『百人秀歌』だと思われます。
このフスマのための歌は、その歌人の一世一代の名歌を集めようとしたのではなく、その歌人が抱える深刻な「苦」、つまり「最も切ない思いのたけ」を歌った歌を集めようとしたものだと考えています。

別に取り上げる織田氏は、『百人一首』に撰ばれた多くの歌を、「愚作・駄作」と評しています。しかし、その際に織田氏はその歌の作者について参照していません。作者の人生や不運に氏は無頓着です。氏の御著書の和歌の引用部分には、多く作者名が附されておらず、氏が歌人の人生や感懐に関心が薄かったことを示しています。しかし、それらの歌は、歌人とその人生に密着したものであることが多く、その人生史がその撰歌を理解するためには必須なのです。
こうした点について軽視したために、個々の歌を「愚作・駄作」とする評がなされた側面があるように思います。

ただの秀歌ではなく、特殊なコンセプトによる撰歌だと考えたとき、『百人秀歌』、『百人一首』の歌々は、いずれも藤原定家の眼鏡にかなった秀歌であるというべきでしょう。