『百人一首』に暗号は隠されていないのでしょうか?

7 『百人一首』の歌に、暗号は何も隠されていないのでしょうか?

定家の撰んだ蓮生の中院山荘障子和歌(百三首)は、『百人一首』とほぼ同じ歌を撰歌したものですが、定家は、この撰歌に、自身の特殊なメッセージ、あるいは「思い」を込める必要がありませんでした。
これは、藤原定家が他人(蓮生)のために撰んだ、他人の家の装飾のための撰歌なのです。定家はこの道のプロなので、依頼主の要求にしっかりと応えました。それは、最初に撰歌された『百人秀歌』の歌から分かります。こうした態度と、そこに不純なメッセージを入れるという行為は相容れません。

なお、織田氏は、『百人一首』の歌に、「ひと」という言葉が異常に多いことを指摘しています。これは暗号を解く鍵のひとつなのだということです。
筆者は、『百人一首』の撰歌に「われ」がという言葉が多く、作者の心情吐露の歌として読むことのできる歌が撰ばれていて、他者に成り代わってその心情をうたった歌がほとんどないことを指摘しました。
「ひと」と「われ」は対義語で、これらが多いことは、すなわちこの撰歌が作者の心情吐露の歌を集めようとしたものであることを示唆しています。つまり、「ひと」や「われ」という言葉が多いのは、蓮生のプロデュースした障子のために定家がそれにふさわしい歌を撰んだ結果、副産物として生じたものであるということになります。
「ひと」など、特定の言葉が多いのは、それが暗号を組むための仕掛けであるためではなく、クライアントである蓮生の要請に答えようとした結果であると考えられるのです。
『百人一首』に、人に知られては都合の悪いメッセージなどは組み込まれていないと考えるのが妥当でしょう。

なお、もし『百人一首』の歌順に何か秘密があるのだとしたら、藤原定家は『百人一首』には関わっていないことを想起すべきでしょう。定家は、『百人一首』に思いを込めようがないのです。