『百人一首』には特に暗くない、四季の歌もありますが?

2 『百人一首』の中には、「苦」とは関係のなさそうな歌がかなり見られます。『百人秀歌』が、蓮生の障子のために、定家が、苦海に呻く歌人たちの歌を撰んだのだとすると、これらについては、どのように説明するのでしょうか?
定家がどうしても撰び入れたい有名歌人のなかには、紀貫之のような、「苦」とは無縁な歌人もいました。その場合、その歌人の歌は単純に「代表作」が撰ばれたようなのです。
実際は貫之には愛娘の死という悲痛な経験などもあって、苦と無縁ではありません。誰であっても、人生というものは、なにがしかの苦と共にあるものなのでしょうが、その悲しみが説話として世に知られていない場合、ここに撰び入れるべき歌人であっても、しかるべき歌がない、という場合が出てきます。そういう場合は、その歌人の風貌にふさわしい秀歌が撰ばれたということでしょう。

なお、撰ばれた歌をみて、一見してそれが華々しい人生の盛時を喜ぶ歌であっても、その歌人の人生の中に置き直してみると、かえって「苦」を示唆するという場合もあります。名誉や地位を得る、幸福の絶頂とも言える瞬間は、仏教的にはまだ「苦」の中にいるのだという思想もあるでしょう。菅原道真などの場合はそういう撰歌です。

たとえば、東京オリンピックのマラソンの銅メダリスト円谷幸吉さんが歌人だったとして、その歌がここに撰ばれるとしたら、おそらく、あの悲痛な自死の際の辞世の歌ということになるでしょう。実際に氏が残したのは、痛ましくも美しい手紙でしたが。
しかし、自死の折の歌としてふさわしい作がなかったとしたら、あの2位で国立競技場のトラックをゴールに向かった瞬間か、日本人で唯一あの競技場に日の丸を掲揚した、その表彰台を歌った歌になるでしょうか。アスリートとして輝いた瞬間を歌った歌ならば、それは晴れやかで華々しい作品でしょう。しかし、その歌をみるとき、私たちは、それが幸吉氏の苦の物語の一場面であることをよく知っています。

『百人秀歌』・『百人一首』の和歌には、その歌人の最も若いころの歌がままみられます。紫式部の歌などもそうです。若く輝いていた時の歌人の肖像は、その後半生を重ねるとき、複雑な光彩を帯びることがあるのです。
また、配列の工夫を整える事情から、あまり知られていない歌が撰ばれるような場合もあったようです。業平の場合などがそうではないかと考えています。