2 親の諫めの春雨の空?

藤原定家『藤川百首』には、こんな歌もあります。
「雨中待花」題で、桜の花の咲くころ、雨の中で開花を待つ心を歌います。

今日よりや木の芽もはるの桜花親のいさめの春雨の空      一一

定家が「木の芽」を歌うのは、検索すると三首が見つかります。
三首とも「木の芽はる雨」という形で、「春雨」にかけ、さらに「降る」と続けます。
次の歌のがその例。

百千鳥なくや如月つくづくと木の芽春雨ふり暮らしつつ
(三宮惟明親王家十五首 春歌 二〇六〇)

春の長雨に、百千鳥の鳴き声が取り合わされたところが新味です。

また、次のような歌もあります。

霞たち木の芽はるさめ昨日までふる野の若菜今朝はつみてむ
(後鳥羽院御所年始和歌会 二〇二九)

早春の霞に潤う木々の芽吹き、そして昨日までの冬枯れの野が一転して緑となって、若菜摘みができるようになったと歌います。

浅緑木の芽はるさめふりみだり薄き霞の衣手の杜
(四季題百首 四季杜 春 三三六二)

この歌は色彩感が大事なのでしょう。薄い霞がかかり、そこに春雨さえ降り注ぎ、その雨の中、浅緑の芽吹きが色を濃くしてくるのだと思います。

いずれにしても、木の芽の芽吹きを促進させる春雨、というのが定家の固定したイメージであり、歌い方であるようです。それを、「木の芽春雨」と歌う都度、音によって構成したり、冬枯れと対比したり、微妙な色彩を歌ったりして、マンネリを避けているようです。

それと比べると藤川百首の「木の芽も春の桜花」は、木の芽と桜の蕾と、ハルものがぶつかり合っています。この歌は「雨中待花」題ですから、かならず桜花を歌わなければならないのですが、それを強調するために題にない「木の芽」を持ちだしたと言うことでしょう。
しかし、そのために、色彩的にも、景物的にも錯綜してしまうように思われます。

また「親の諫めの春雨の空」とは何でしょうか?
これは『和漢朗詠集』の「雨」にみえる「養得自為花父母 洗来寧弁薬君臣」(八二)の詩句によったもので、春雨を、草木を養う父母にたとえているとされます。

ところが、この歌では「コノメ」と「イサメ」と「ハルサメ」という韻を揃えて語調を整えたもので、いわば語呂合わせにすぎないように思えます。

そして、「親の諫め」とありますが、その「親」とはとういう「親」なのでしょうか?俊成なのでしょうか?またその「いさめ」とは?

どちらも唐突で、にわかに意味が通らないように思います。
強いて言えば、鬱陶しい〈春雨〉を、やむことのない親の小言にたとえたのでありましょうか。しかし、これは首をかしげざるを得ない言い回しです。
もしかすると、これは一種の諧謔、つまりギャグで、笑うところなのでしょうか。

一方、この「親の諫め」については、藤原定家の承元四年七月ごろの歌に

なきかげの親のいさめは背きにき子を思ふ道の心よはさに
(『拾遺愚草』下 部類歌 二五七七)

という詠があることが知られています。
これは、亡き親によって禁止されていたことを破ってしまったという悔恨の歌です。
このとき、定家は、時に十三歳で侍従であった息為家を左近衛少将に任ずるために、自分の中将という官職を辞しています。その折の述懐歌で、同年九月の粟田宮歌合の際に詠まれた述懐歌歌二首とともに『拾遺愚草』に採録されました。後に、『定家卿百番自歌合』にも撰歌していて、定家の思い入れのある歌なのです。
この歌の「親の諫め」は、亡き俊成の庭訓であって、子息の任官に当たっての身の処し方について、守るべきであると言い聞かされていた事柄なのでしょう。それに背いたという自責の念と、それとうらはらな、親として息為家の任官や昇進を願わずはいられない〈心弱さ〉への自嘲が込められています。子を思う家庭人としての定家の横顔が垣間見られる歌です。

『拾遺愚草』および『定家卿百番自歌合』では、この歌の前にどちらも同じ二首の歌が並べられています。それは粟田宮歌合の詠二首ですが、その歌も、「和歌浦」の「名」が「朽ちる」と歌い(二五七五)、また「三笠の山」を「さし離れ」ると歌います(二五七六)。
和歌の道を生きる物として、また藤原氏の一族として生きる物としての自恃を自省する、どちらも切実な述懐歌です。この「なきかげの」とあわせた三首一連は、五十歳を目前にした定家の心中を歌う歌として、深い思いが込められたものなのです。

そういう歌に用いられた重要な歌句「親の諫め」を、定家が、右の「今日よりや」のような趣向の歌のうちに、軽く語調を整えるために用いるものでしょうか。

あの親の小言のようにグズグズと降り続く春雨だが、
今日からは春で、木の芽も芽吹き、桜も咲く

こういう風にまとめれば、一見すると春の歌として成り立っているように思えるかも知れません。
しかし、これでは先の百千鳥や古野、衣手の杜での定家の歌いぶりとは、ずいぶん異なっています。
果たして、これは、定家の新境地なのでしょうか?

2015/06/14

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