獄雨の完調日記 6
2015年8月30日
昨今の拙俳句を少々。
今年になってから作った拙俳句を少々披露したい。
弧にしなるプリマの甲や深雪晴れ
初詣子等の靴ひも結い直す
柄の渇きまづ潤ほして初包丁
氷柱や恋は万葉仮名で孤悲
老師立つ月(プラット)台(ホーム)春浅し
石庭の砂紋に雛を流しおり
海明けの風にふくらむ大どてら
花衣たぐるうたぐるうちしぐる
チマチョゴリ座して広野の春芙蓉
春眠ヲ貪レバ是レ師ノ遺風
夏雲やおっぱいばかり考へる
青田波大河を渡り田から田へ
美ら海は雨降らざれど虹の立つ
糸伝ふ振動を待つ女郎蜘蛛
法華経はいのちの讃歌若葉雨
蚊遣火の渦に巻かれて午睡覚む
夕焼けで手術台まで真赤です
青りんご齧りジョブズの獅志を抱く
ロックグラス割るほどの恋晩夏光
ぽつねんと「岩が好き」とや夏日記
サングラス銜えたままの身繕ひ
裸子やいくさ無き世の七十年
お世辞にも上手いとは言えない句ばかりだが、とにかく俳句というのは作ることが愉しい。夏の入道雲の如く全方位に拡がる我が「思い」をバッサバッサと切り捨てて、五七五に切り詰め押し込め、また切り詰める。その作業の残酷さったらない。作ることが愉しいのではなく、捨てることが愉しいと言うべきか。仏教で言う喜捨ですな。
ただ、私は昔からスマートというかソフィストケイト(洗練)というのが嫌いで、不格好なものバランスの悪いものに憧れる性癖がある。それでいささかならず変な句を作っては句会で顰蹙を買うのが習いとなっているのである。
シャボン玉吹くトロンボーンセッシボン
これが私の代表句と言われているものである(笑)
私も気に入っていて、別号の切枝凡もここから取った。
そうした観点からすると、今年の句は大分面白味に欠けるかもしれない。せいぜい、
花衣たぐる うたぐる うちしぐる
ぐらいが手柄と言えようか。
ともかく、そうした、へたうま俳句を目指さんが為に、昨今は理論武装まで考え始めているのである。別立てで「雨の獄窓」に載せた「「浅ましく下れる」くらいがちょうどよい-西鶴の俳諧と遊びの精神-」は、美研インターナショナル、と言う会社が発行する雑誌『Kanon』から生まれた俳句専門誌『かのん通信』、その2011.6 vol.8に載せた拙文である。同じく別掲している自註両吟「おほなひの巻」と一緒に載せたものである。ご参考までに。
染谷智幸(そめや・ともゆき)俳号は獄雨、切枝凡
専門は日本文学(江戸時代)、日韓比較文学
写真(著者撮影)はヘルシンキの小便爺さん、シュールである