獄雨の完調日記 1 

獄雨の完調日記1

2015年6月24日

完調日記を再開することにした。

かつて2010年の4月から3年間、勤務先の茨城キリスト教大学(茨城県・日立市)で図書館長を仰せつかったのを機に、学生諸嬢、諸君に向けて、図書(絵や書など)や図書館の魅力を少しでも伝えられればと思って始めたのが、この「館長」ならぬ「完調」日記であった。図書館長の任期は4年、最後の1年は少し真面目に働いたせいで、完調日記も休業を余儀なくされたが、それまでの3年間はひと月に平均1・2回のペース(だから正確には日記とは言い難いのであるが)で拙文を披露した。その評価はともかく*、私としては実に愉快な経験をさせてもらった。

さて、昨今その図書館長やら何やらの職務からも開放され、またぞろ何か書きたくなってきた時に、大学・大学院時代からの畏友、草野隆氏が「久良岐古典研究所」をムジナ谷戸に構えるとの一報が届いた。これ幸い、同じ穴のムジナを目指さんと、すわ研究所員の第一号にしていただき、完調日記もここに載せて戴くことと相成り申した次第。

まずは、久良岐庵のこけら落としに、挨拶吟ぐらいは贈らねばなるまい。

暗きより久良岐道にぞ炒り新茶   獄雨

「暗きより」は言うまでもなく「暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月」(和泉式部)を踏まえたもの。お招きいただいた久良岐庵主へのお礼に、釜炒りの新茶を振舞うという趣向。釜炒りされた新茶のふかーい緑は、昨今のマイブーム、色彩の魔術師、川瀬巴水の影響でもある。

その川瀬巴水(1883~1957)だが、これも言うまでもなく、大正・昭和初期に文化的旋風を巻き起こした「新版画」運動の巨星である。巴水は、国内よりも国外で評価の高かったが、昨今日本でも俄かに人気が出て、2013年末から2015年の初夏まで全国で開かれた展示会の来訪者は、何と20万人を越えたとのことである。

実はその巴水、生まれ故郷の東京以外で、最も多く訪れ、かつ最も多く作品を遺したと思しき場所が茨城県であった。このことは全国はもとよりその茨城県でもあまり知られていない。また、その点とも関わるが、巴水は私の勤務先である茨城キリスト教大学に生前足繁く通って学園関係者とも交流があった。

学園でもこのことを知る人がほとんど物故あるいは退職され、忘れ去られていたのだが、ここのところの巴水ブームと千葉県柏市でギャラリーを営む鈴木昇氏(国際新版画協会会長)を始めとする関係者のご努力によって、本学に眠っていた巴水の水彩画等が陸続と発見されるなどして、俄かに息を吹き返したのである。

そんな大切なものを眠らせてきたのが、大学であってみれば、いささか恥ずかしくもあり、本来なら所蔵の管理責任者(その時の図書館長は実に私であったのだ!)は減俸もしくは懺悔室である。しかし寛大にも、私は本領安堵を許され、これを機にいささかの反省とともに巴水を調べ出したところ、すっかりハマってしまったという次第である。

とまあ、勝手に巴水の話を始めたのは他でもない。再出発となったこの完調日記は、巴水を中心に様々なことを備忘録風に書いていきたいと考えたからである。

なお、いままで書いた完調日記だが、このまま捨てるのに忍びなく、また新しい日記でも折に触れることもあろうということで、手直しをして少しずつ再掲することにした。

ちなみに「完調」(浣腸ではありませぬぞ)の意味については、その再掲した第一回目をご覧あれ。

*実は、この完調日記、1年程度でやめるつもりだった。だれも読んでくれていない気がしたからである。ところが1年も終わるころ、福島県在の女子高校生からメールが来て、毎回楽しませてもらっています、と書いてあった。原発事故のこともあり、これで止められなくなってしまった。。。

 

gokuu01

染谷智幸(そめや・ともゆき)俳号は獄雨、切枝凡

専門は日本文学(江戸時代)、日韓比較文学

写真(著者撮影)はヘルシンキの小便爺さん、シュールである

 

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