「浅ましく下れる」くらいがちょうどよい-西鶴の俳諧と遊びの精神-

井原西鶴は、江戸時代の元禄期、大阪で活躍した文学者である。つとに浮世草子作者(小説家)として有名で、代表作に『好色一代男』や『日本永代蔵』『世間胸算用』などがあるが、彼の小説はあくまで手すさびで、本業は俳諧師であった。その西鶴が、俳諧でどのような世界を作り上げようとしていたのか。これはいまだに謎である。もとより父母兄弟や家系など全く分からない謎だらけの西鶴のことだから、俳諧が謎だとしてもちっとも驚くに値しない。ところが、この俳諧の謎は他の謎と趣を異にして、いささか重要な謎なのである。それは、西鶴と同時代に活躍した、あの松尾芭蕉が西鶴について次のような言葉を遺しているからである。

先師曰く、世上の俳諧の文章を見るに、あるいは漢文を仮名に和らげ、あるいは和歌の文章に漢字を入れ、辞あらく賤しくいひなし、あるいは人情をいふとても、今日のさかしきくまぐまを探り求め、西鶴が浅ましく下れる姿あり。わが徒の文章は、慥に作意を立て、文字はたとひ漢字を借るとも、なだらかにいひつづけ、事は鄙俗の上に及ぶとも、懐かしくいひとるべしとなり(向井去来『去来抄』)

(現代語訳)芭蕉先生がおっしゃったことには、世の中の俳諧やその文章を見ると、あるいは漢文を仮名にして柔らげ、または和歌風の文章に漢字を入れたりするけれど、結局は言葉が美しくなく卑しいものである。また例えば人情を標榜するにしても、昨今のこざかしい風俗を隅々まで探り求める、西鶴のような浅ましく下品な文章がある。我が一門の文章とはそうでなく、きちんと作意を立てて、漢字を使うにしても、なだらかに言葉を継ぎ、また題材が卑俗なことに及ぶとしても、どこか床しく懐かしく表現することが肝要だ、ということであった。

芭蕉先生、相当に西鶴が嫌いだったらしい。「西鶴が浅ましく下れる姿」は峻烈な言葉で、まるで主君か親の敵かと紛うほど。先生の方こそもうちょっと「なだらかに」「懐かしく」おっしゃられた方が良いのではと、漫才師流のツッコミも入れたくなるが、それほどに西鶴の「俳諧の文章」は、芭蕉の癇に障っていたのである。いったい西鶴の何が芭蕉をそんな気持ちにさせたのか。

この問題を考える際に、示唆に富むのが中村幸彦氏の「好色一代男の文体」(『中村幸彦著述集』第六巻所収)という論文である。この論文は西鶴の浮世草子(小説)について述べたものであるが、西鶴の俳諧やその文章を考える際にも大いに参考になる。中村氏は西鶴の文体を詳細に分析された結果、その特色を「故意に、俗語のいやみと、雅言のぬめりを用いた」ところにあると喝破した。つまり最初から洗練を拒否したところ、反ソフィストケイト、上手くなんかなるな、下手で良いのだと居直ったところにあるとする。この指摘が興味深いのは、もしそうであれば、芭蕉がなぜあれほど西鶴を嫌ったのかが腑に落ちてくるからである。すなわち西鶴がやろうとしていたことは、芭蕉の目指す世界とはあべこべだった可能性がある。

しれぬ世や釈迦の死あとにかねがある

僧はたたくなまぐさ坊主の水鶏哉

絶えで魚荷とぶや渚の桜鯛

花が化て醜い人もさかり哉

平樽や手なく生まるる花見酒

仲人口人にかたるな女郎花

これらは西鶴の発句である。いかにも談林派の闘将らしく、当時の社会風俗が大胆に組み込まれている。例えば三句目、業平が「たえて桜のなかりせば」と詠んだのに対して、今は桜鯛の魚荷が絶えることなく飛ぶように取引されている様を言った。後に天下の台所と言われた大阪らしい発句である。しかし問題の核心は、そうした大胆な裁ち入れとともに、どうにもぎくしゃくする言葉のリズムにある。例えば一句目二句目、「しれぬ世や釈迦の死あと私銀(わたしがね)」とか「なまぐさの坊主がたたく水鶏哉」とか、少し手を入れればいくらでもスマートになるように思うが、そうしてしまった途端に消えてしまう「いやみ」や「ぬめり」が確かにある。特に二句目の「僧」と「坊主」の重なりはなんとも詰屈だが、それは唐の賈島「僧は敲く月下の門」の幽玄な世界と、生臭坊主が水鶏の骨を砕く猟奇的世界の隔絶を際立たせたかったためであろう。その不釣り合いというかズレ自体がこの句の持ち味なのである。ちなみにこの賈島の話が「推敲」の語源になったことは有名な話である(賈島がこの句を「敲く」か「推す」かで迷っていたところ詩人韓愈が「敲く」を良しとした云々)。とすれば、西鶴は先に私が試みたような「推敲」自体を否定したことになる。なるほど見事に「いやみ」な話ではある。

こうした西鶴の反洗練・反推敲の姿勢は、彼が始め、かつ記録ホルダーでもある矢数俳諧(一定時間に何句詠めるかを競う俳諧ゲーム、西鶴は二万三千五百句の記録がある)で、極まったと同時に逸脱してしまった感もあるが、西鶴の姿勢自体は、談林俳諧が持っていた世界の核心と重なることも間違いない。談林の総帥、西山宗因が言った「古風当風中昔、上手は上手、下手は下手、いずれを是とは弁えず好いたことして遊ぶに如かじ、夢幻の戯言也」(『阿蘭陀丸二番船』)の中には、詩を洗練し陶冶させることよりも、自由闊達な世界に遊ぶことを優先させる姿勢がある。西鶴も同じ姿勢だったのだろう。ただ、芭蕉が宗因を責めずに西鶴を責めたのは、西鶴が宗因よりも破壊的、前衛的だったからに違いない。

ひるがえって現代はどうだろうか。俳句結社、俳句人口は隆盛を極めるかに見えるが、多くは芭蕉の言う洗練さに汲々としていて宗因や西鶴が大事にした遊びの精神は失われているのではないか。ふとそんなことを考えていた折に、あの大地震(おほなゐ)に見舞われた。自宅の場所は震度6弱の茨城県つくば市。身は無事だったものの、家の中は倒れ落ちた本などで踏み場もない。それらを片づけている折に、作家の林望さんから「生きてるかい」とのお見舞いのメールをいただいた。しかもそのメールの最後に発句がつけてある。すわ脇句を付けて返したところ、興に乗って数日で両吟歌仙ひと巻が出来あがった。これこそ宗因・西鶴の言う遊びの精神だ、とまでは言わないけれど、余震やら原発の放射能やらが世の人心を締め付ける中、私は大いにストレスを発散させてもらい心和んだのであった。文学の力侮れずである。

世の風狂人たちよ、かような時こそ、文学は無力なりなどと嘆いてみせず、大いに風雅に興じつつ世を慰めようはありませんか。

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