官吏小野篁とその流離
官吏小野篁とその流離
小野篁は、承和年間に遣唐使の副使に任じられた人である。失敗を重ね、ようやく五年五月七日に出発した遣唐使は、菅原道真が渡唐を命じられて結局中止となった最後の遣唐使計画の前のプロジェクトで、結局最終の遣唐使となった。ただし、篁は病を称して乗船していない。『百人秀歌』で、渡航したが帰国できなかった仲麻呂と、渡航に失敗しまた乗船しなかった篁の歌が並べられているのは、決して偶然ではないのだろう。
篁は、その詩才を唐土の詩人に激賞されていたという説話がある。唐において遣唐使として篁が来訪することを聞いた、かの白居易が心待ちにしたというのである。この、唐土で詩才を激賞されたという点でも、仲麻呂と篁は並んでいる。
さらに、篁には、地獄の閻魔の庁で役人として働いていたという説話がある。唐土で活躍しながらも鬼になったという仲麻呂と、地獄で才能を認められた篁がならんでいるということでもあろう。
小野篁(享年五十一)
七 わたの原八十島かけてこぎいでぬと人にはつげよあまのつり舟
今、私は、罪を得て隠岐に流されるためにこの港で風待ちをしている。この地は、かつて私が、はるか唐土に渡航するために胸膨らませて船出をした地だ。渡航は、二度にわたった。どちらの航海も失敗し、命に従って三度目の乗船をしたが、わけあってそれも断念することになり、それがために私は今、罪人として護送される身となって、この港にいる。
出港の時は近いようだ。遠近の海面に小舟を出して魚を追っている漁師たちよ、あの立派な遣唐使船とは何もかも違った粗末なこの私の船を、どうか見送っておくれ。そして、都の身内や友たちには、この篁は大海の数多の島をめざして、立派に船出をしたと語っておくれ。
〔作者と歌〕出航する罪人
小野篁については説話も多く、その表情は多彩だ。
まずは学才のある人であったらしい。その文才が高く評価される一方で、反骨の人、狷介な人ともみなされていたようである。篁は普通野宰相と略称されるが、そのために野狂と呼ばれることもある。
地方官を務める父の元に生まれた篁は、一念発起して試験に及第して文章生となったという。巡察弾正、弾正少忠・大内記・蔵人などを経て、大宰少弐に叙任している。大宰少弐は大宰府の官で、帥、権帥、大弐(だいに)に次ぐ。筑紫にあって大陸との交渉や防衛を任とし、西海道九カ国を所管した。篁の語学力が評価されていたのだろう。
承和元年(八三四)には遣唐使の副使に任じたが、二度の難船を経験している。承和五年、三度目が試みられたが、ここで事件が起きた。
大使藤原常嗣の第一船に漏水が見つかり、常嗣が願い出て、副使篁の乗る第二船を第一船と取り替えた。正常な第二船に常嗣が乗船し、篁は故障のある船をあてがわれたのである。篁は反発して猛抗議した。そのあげく、自身の病気や老母の世話を名目に、乗船を拒否した。大使
常嗣らは篁を残して渡航することになった。
さらに、篁は恨みの気持ちを詩にして朝廷を風刺する。『西道謡』という。その詩文には忌むべき表現が多用されていた。これを読んだ嵯峨上皇は怒り、篁は官位剥奪の上、隠岐への流罪に処せられることになった。承和六年、隠岐へ配流される道中に篁が制作した『謫行吟』七言十韻は時の人に名作とされ愛吟されたという。隠岐への道筋は、大阪から乗船し、瀬戸内海を西行して日本海に出るのだという。この時の歌がこの歌である。
しかし、篁は翌承和七年には許されて帰京する。その翌年、元の位に戻ることが許され正五位下刑部少輔となる。道康親王、つまり後の文徳天皇が皇太子となると、篁は学才を評価されて東宮学士となり、次いで式部少輔となる。承和一二年(八四五)には仁明天皇の蔵人頭となり、翌年には権左中弁、次いで左中弁となる。承和一四年に参議となって公卿に列する。ただし官位は従四位上であり、病を得た後に従三位に序せられる。参議左大弁が極官である。参議は定家の中納言より下で、位も定家の従二位より下ということになり、また尉官ではなく弁官だが、蔵人を務めるなど、似たところも多い。
篁は政務に明るいだけでなく、文章や漢詩、また和歌にすぐれていた。散逸したが和歌集の『野相公集』があったという。また書も巧みで、かの王羲之父子に並ぶとまで言われた。
一方で、説話の世界では、篁は異母妹に恋した多感な男としてあらわれる。『篁物語』の前半部が造形する人間像で、これは『古今和歌集』に採録された妹の死を悼む歌をもとに想像により作られたものらしい。物語の中で篁は、死した妹の亡霊と交感する。その後半部は、篁が右大臣の娘に求婚し、三の君を得て栄達するというものである。『本朝文粋』巻七に、自らの恋の成就を願う異色の書状「右大臣に奉る」が採録されていて、この恋は事実無根というわけではないらしい。
歌物語の中では、篁は亡霊とも交感する恋多き人物なのである。
一方、有能な官吏としての篁にも、よく知られた話がある。昼、朝廷で働いた篁は、夜には地獄の冥官として働いていたというのである。冥官としての篁は、地獄に落ちていた紫式部を閻魔大王に取りなしたり、藤原良相の蘇生を助けたりしたとされる。
その驚嘆すべき学才を語る説話も多く、謎を即座に解いたであるとか、白楽天の詩文の中に仕込まれていた意図的な誤字を即座に指摘したなど枚挙にいとまがない。
その一方で、古い総合系図である『尊卑分脈』では、篁はあの小野小町の祖父とされていたりする。小野の一族にはいろいろと興味深い者がいるのである。
よく源平藤橘などと言って、自家の由緒を飾りたい者はものは、実は桓武平氏であるとか藤原氏なのだとか称したがる。小野氏もそうした由緒ある家と考えられていたようで、東国には小野篁の子孫を称する武士集団もあった。武蔵七党は平安時代後期から勢力を伸ばし始め、御家人として鎌倉幕府を支えた豪族であるのだが、その中の猪俣党や横山党などが小野篁の子孫だと名乗っていたのである。
猪俣党は、武蔵国那珂郡、現在の埼玉県児玉郡美里町あたりを根拠としていて、猪俣範綱や岡部忠澄が、保元の乱や平治の乱、一ノ谷の戦いで活躍している。この岡部忠澄は、『平家物語』の中で、一ノ谷でかの平忠度と組み討ちになり、辛くも討ち取った武将として登場する。忠度は、定家の父俊成の和歌の弟子であり、平氏の都落ちに際して和歌を俊成に託して行ったという『平家物語』の話で余りに有名な人物である。定家と、蓮生ら鎌倉の歌人が和歌をめぐって「雑談」するとき、この忠度と忠澄の組み討ちの話が出ることもあっただろう。その際に、その忠澄の先祖が、かの小野篁であると喧伝されたことは多いに考えられる。
横山党は、武蔵国多摩郡横山荘を根拠とした。東京都八王子市あたりから神奈川県北部に拠点があり、鎌倉幕府初代の評定衆の一人となった中条家長はその出である。愛甲季隆はかつての愛甲郡、今の厚木市愛甲の武士で、畠山重忠が討伐された二俣川の戦いで重忠を射てその首を北条義時に献じ大いに武功をあげたという。しかし、建保元年の和田合戦では和田側に参じ、一族と共に討ち死にしている。
つまり、鎌倉の幕府では、宇都宮頼綱つまり蓮生は、折にふれて、小野篁の子孫を名乗る歴戦の御家人たちと同座していたのである。鎌倉でも蓮生は歌人として知られていたので、猪俣党や横山党の武将から、自分たちがかの有名な歌人である小野篁の流れであることを知らされ、誇られていた可能性がある。ちなみに、その宇都宮氏は藤原氏北家の道兼の流れだと言うことになっている。